人生の最期を看る、尼崎のけったいな町医者に密着。「生と死に向き合う日々でした」
「在宅医療」「終末期医療」の現場から、人生の終わり方を見つめた、現在公開中の映画「痛くない死に方」。高橋伴明監督が映画化した本作のベースになっているのが、現役の医師、長尾和宏のベストセラー「痛くない死に方」「痛い在宅医」だ。
長尾医師は、兵庫の尼崎でクリニックを開業する在宅医療のスペシャリスト。これまでに在宅医として2500人以上の町の人々を看取ってきた。映画「痛くない死に方」に登場する、奥田瑛二扮する長野浩平医師は、長尾医師をモデルとしている。
1本のドキュメンタリー映画にして公開することは考えていなかった
公開から1ヶ月以上のロングランヒットとなっている「けったいな町医者」は、その長尾医師に密着したリアル・ドキュメント。手掛けたのは、「痛くない死に方」で助監督を務めていた毛利安孝監督。このドキュメンタリーの出発点をこう明かす。
「はじめは、1本のドキュメンタリー映画にして公開することは考えていなかったんですよ。まずは、映画『痛くない死に方』のDVD特典として、長尾先生の日常を追った映像をまとめてはどうかというアイデアが出て。
そこから始まったんですけど、もうその時点から、僕の中に長尾先生をきちんと取材してみたい気持ちが芽生えていたというか。
長尾先生には映画『痛くない死に方』の医療監修もお願いしていて、撮影現場にも来られていたんです。そこで話したこと、周囲のスタッフとの会話を含めて、すごく先生という人間に興味がわきました。
この人が医師として尼崎でどんな日々を送っているのか見てみたいと思いましたし、先生が提唱されている、尊厳死であり平穏死、自然に死を迎える『枯れていく死に方』が、どういうものなのかを見てみたい気持ちというのも正直ありました。
それで、予算と時間の許す限り、カメラを回させてもらえませんかと制作サイドにお願いしたら、『それは構わん』と。長尾先生も『いい』ということで話がまとまって。
年末に長尾先生が患者さんなどを招待する『ひとり紅白歌合戦』があったので、期間としてはそこを一応の目処に納得するところまで撮影することにしました」
長尾先生の『こんなの毎日のことやぞ』という言葉
具体的には長尾医師のどういうところに興味がわいたのだろう?
「映画『痛くない死に方』では、在宅での看取りの2つのケースを描いている。ひとつは(『痛い在宅医』で対談した、長尾医師の著書を読んで親御さんの最期を在宅医に頼んだのに、痛い思いをして親が亡くなってしまったという女性の実話を元にした)うまくいかなかったケースで、もうひとつはうまくいって本人が望む死に方にいたったケース。前者の患者は、下元史朗さんが演じて、後者の患者は宇崎竜童さんが演じて、ひじょうにリアルに心に訴えかけてくるものがある。
後者は出来すぎているようにも思ったけれど、長尾先生が『こんなの毎日のことやぞ』とおっしゃっていて。
フィクションで済まさないで、看取るご家族に許されるのならば、自分もその実際の現場に立ちたいと思ったんです。ほんとうに人が自然と枯れていって苦しまずに死んでいくところを見てみたいと。
あと、実際に長尾先生が患者さんとどういう向き合い方をして、どういった診療をなさっているかもリアルで見てみたいと思いました。とにかく世の中のお医者さんのイメージとはそうとう違うお医者さんなので(苦笑)」
最初は『とんでもないところに来てしまった』と思いました
映画「痛くない死に方」の撮影終了後から、長尾医師を追う日々が始まった。それは長尾先生がいっていた通り、日々「生」と「死」と向き合う日々だった。
「正直なことを言うと、最初は『とんでもないところに来てしまった』と思いました。
『果たして、俺はこれを撮影することが可能なのかな』と思いました。偽りのない死の現場で。
ただ、カメラを持って入らせていただいた限り、もう腹を決めて、きちんと真面目に僕の仕事をまっとうするしかない。
作品をみた伴明監督がこう言ってました。『最初の頃はお前、かなり動揺してるよな。でも、もう後半戦は何か覚悟できてるな』と。まさにその通り。前半戦はかなり迷いがありました。それは『撮るからにはいいもの撮らないと相手に失礼』や『これ、どうやって撮ったらベストなのか』といった気持ちで揺れに揺れて、迷いが生じている。
ただ、途中からふっきれたというか。本来は、医師とご家族、親族しか入れないこの神聖な場所に入る限り、絶対に自分は邪魔しない。邪魔にならないでこの空間をプロとしてしっかり撮ろうと心が決まりました。無意識にそういう心境になっていた。
そこからいい意味で、無意識にカメラを回せるようになったというか。力が抜けて、撮ることだけに集中している。
だから、変な話なんですけど、後で映像を見直したときに、『ここ寄ってんの?俺』とか『ここズームかけてんの?』とか、そんな撮り方していたか?と思うところがあって、驚きました。自分でカメラを回していたのに」
長尾先生だけを追うことに集中した理由
撮影に徹したのには、こんな理由もあった。
「カメラを回すことに徹する。しかも、長尾先生だけを追うことに集中したんです。患者さんにまで気を向けることをあきらめたというか辞めたんです。
その理由は、長尾先生を撮影させていただいて2日目のこと。この時は、まず先生の1日のだいたいのサイクルをつかもうと、カメラを回さないでただついてまわっていたんですけど、すでにお亡くなりになった方のもとへ、かけつける場面に居合わせた。
そのときに、ものすごく混乱して哀しいのか、『お前がここにいていいのか』という自責の念からかわからないですけど、涙がでてきた。混乱してなにも手につかない。たいへん申し訳ないんですけど、患者さんに思いを寄せてしまうと自分はなにもできなくなると思ったんです。
だから、当初は、看取られた方のインタビューとか、先生の患者さんへの取材とかも考えていたんですけど、本作ではやめようと思ったんです。自分の気持ちが引っ張られすぎてしまうから。
中心にあるのは、長尾先生にほかならない。だから、『365日町医者』と言い切る長尾先生が、ほんとうにそのことを体現しているのか、そちらに集中しようと思ったんです。長尾先生だけを追いかけようと」
撮影の苦労話を少し明かしてもらうと。
「最初から段取りしないと決めてはいたんです。『あそこから歩いてきてください』とか、改まったインタビューのようなことは一切しない。ありのままを撮る。出たとこ勝負で、とにかく先生を追い続ける。『ひとり紅白歌合戦』に関しては、事前にカメラ位置を決めたいので、先生の立ち位置を決めてもらったんですけどね。
ただ、それを少し後悔したというか。長尾先生はどこに行くのか分からない(笑)。あっちいったりこっちいったりと、一日中移動するので、先生をひたすら追うことになってしまった。その間、ずっとカメラを回し続けて結果、莫大なデータ量になってしまった(笑)。
編集のときにあまりに莫大な映像の山で、『どうしたらいいの、これ』と呆然としました」
長尾先生はもちろん立派なお医者さん、でももしかしたら、
町の人にとっては昔よくいた世話好きのおっちゃんのような存在かも
密着取材を通して、毛利監督の目には、「医師・長尾和宏」はどう映ったのだろう?
「ご存知の方も多いと思いますけど、長尾先生の病院がある 兵庫の尼崎はディープな町で。いろいろな人が住んでいるバイタリティ溢れる町なんです。
この町だから、長尾先生が自分らしく、己が目指す医師像を貫けたのかなと。
尼崎の人には嘘がつけないというか。少しでも嘘があるときっと見破られてしまう。
『医師と患者』である前に『人と人』であることを信念に診療されている。この関係性に嘘があると、尼崎のような町ではすぐにボロが出て淘汰されてしまう。
長尾先生はもちろん立派なお医者さんなんですけど、もしかしたら、町の人にとっては昔よくいた世話好きのおっちゃんのような存在かもしれない。あそこまで患者さんにべらべらべらべらと話しかける人はいない。親身になって『ここ痛くないか』とか、『なんか困ってることないか』とかいう人はいない。
やってることは型破りだけど、町の人に寄り添ったお医者さんなんだなと思いましたね」
このドキュメンタリーを通して、長尾イズムが伝わればうれしいという。
「長尾先生が危惧しているのは、いまの医者や病院が患者さんを病気でひとくくりにしてしまうこと。もちろん医師はその人の病気を診て治すわけだけれども、その患者さんは、患者である前に、ひとりの人間であり、その人の抱えている事情や生活様式がある。
そういう事情を聞いて、見抜いて、はじめて、治療ができる。そういうこともしないで、病名だけみて、薬だけをじゃぶじゃぶと処方する今の医療の在り方に警鐘を鳴らしている。
こういう長尾先生のイズムがいろいろなお医者さんに受け継いでもらえたらなと思います。長尾先生のように『ひとり紅白歌合戦』を開いて、歌うお医者さんが増えてしまうのは、けったいなことになるのでどうかと思いますけど(笑)。先生の医師としての姿勢に共鳴する人がもっと増えてくれたらと思います。
そういう意味で、もちろんいろいろな人に見てもらいたいのは重々あるんですけど、中でも医療従事者、とりわけ若い医師にみてもらえることを願っています」
「けったいな町医者」
監督・撮影・編集:毛利安孝
出演:長尾和宏
ナレーション:柄本佑
シネスイッチ銀座ほか全国公開中