【戦国こぼれ話】戦国武将の恩賞に大きく影響した、首実検とはいかなる作法だったのか
現代でも事件が起こり、死者が発見されると身元を確認する。戦国時代には武将が敵を討った際、その首が誰なのかを確認し、恩賞を与える基準とした。これを首実検というが、いったいどういう作法だったのだろうか。
■首実検とは
首実検とは、討ち取った敵の将兵の首が誰のものであるかなどを確認する作業である。先述のとおり、恩賞を決定する基準になったので、極めて厳密に行われた。
首実検は平安時代末期頃から行われ、室町時代以降は作法や儀式が確立した。現代のように写真技術が発達していなかったため、首が誰のものであるのか、確認作業は慎重に行われた。特に、首が敵の大将のものであるか否かは、非常に重要な問題だった。
■死者への敬意
討ち取られた首は、水できれいに洗い、髪を梳いたり薄化粧を施すなどし、きれいに整えられた。高貴な身分の武将の場合は、鉄漿(おはぐろ)を施すこともあった(『おあむ物語』)。こうして死に化粧を施し、死者へ敬意を払ったのである。
慶長20年(1615)の大坂の陣で討たれた豊臣家の家臣・木村重成は、出陣前に頭髪に香を焚きしめたという。これも首を取られることを念頭に置き、恥ずかしい姿を人目にさらさないよう心掛けた武将の嗜みであった。実際に、徳川家康は重成の首に接した際、その潔い態度に感嘆したという。
■首実検の手順
首実検は主に寺院で行われ、大将、首の披露役、立会人らが臨んだ。首の確認の際には、大将の面前に首が運ばれ、披露役の武将が誰の首であるかを読み上げた。ここが極めて重要で、大将の首を取った者には、多大な恩賞が与えられた。
このとき酒の入ったかわらけを首の前に置くなどし、死者を弔って敬意を払ったという。こうして敵の大将や重臣クラスの首は、慎重に首実検が行われたのである。
しかし、雑兵クラスになると、一度に数個の首が並べられるなど、やや作業が雑だったようだ。雑兵の首の場合は、誰の首かわからないことも多かったに違いない。首実検の評定では、首の目の向きによって吉凶が占われたといわれている。
首実検が終了すると、首は晒し首にされることもあった。天正10年(1582)の山崎の戦い後、土民に討たれた明智光秀の首は晒し首にされたが、それは見せしめのためである。一方、ケースによっては首を敵方に送り返したり、丁重に葬ることもあった。
■今川義元の例
永禄3年(1560)5月、今川義元は桶狭間の戦いで討ち取られ、その首は須ヶ口(愛知県清須市)に晒された。今川家旧臣の岡部元信は、自身の居城・鳴海城(名古屋市緑区)と交換で義元の首を返却してもらった。
元信は刈谷(愛知県刈谷市)、吉良(同西尾市)を経て駿河国に向かったが、初夏の暑さから首の損傷が激しく、途中で東向寺(同西尾市)に塚を築き、首を埋葬したという。結局。義元の首は、本国の駿河へ持ち帰ることができなかったのだ。
■浅井久政・長政父子の例
天正元年(1573)に浅井久政・長政父子と朝倉義景を滅亡に追い込んだ織田信長は、翌年の正月に3人の首を薄濃(はくだみ:頭蓋骨を漆塗りにして金粉を施すこと)にし酒宴を催した(『信長公記』)。これは、まったく例のないことだった。
この点については、信長が3人に対して激しい敵意を持っていたという説と、単に首化粧の一種であるとの説がある。前者の場合は、同席した家臣への見せしめ的な要素があったのかもしれない。後者ならば、首に敬意を表していたということになろう。
■手間取った首実検
実際のところ、首の確認には手間取るケースもあった。大将クラスなら立派な兜をかぶっていたり、面会したことがある武将が立ち会って確認をすることができた。しかし、真田信繁のように、叔父の信尹(のぶただ)さえも何年も会っておらず、確証が持てなかった逸話がある。
それゆえ当時の人は、本当に当人が死んだのが疑念を持つことが少なくなかった。戦後、牢人狩りを行ったのは、その理由の一つである。牢人狩りで、納得がいくまで探したのである。
いずれにしても、首実検は恩賞の軽重を決める重要なことだったため、将兵たちにとっては大切な儀式だったといえよう。