大いに誤解があった!? 五大老と五奉行の知られざる職務内容とは?
大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)と五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家)の存在にスポットが当たった。
一般的には五大老が政権の意思決定機関で、五奉行はその下で実務を担うと認識されてきたが、それは必ずしも正しくない。以下、堀越祐一氏の研究により、その職務内容を確認することにしよう。
五大老の第一の職務は、秀吉の死後、文禄・慶長の役で朝鮮に出陣した日本軍を引き上げることだった。朝鮮からの撤兵は、五大老の最初の大仕事だったが、臨時的な業務に過ぎず、恒常的なものではなかった。
五大老の第二の職務は、慶長4年(1599)3月に薩摩で勃発した庄内の乱(島津氏と重臣の伊集院氏の内紛)など、謀叛や反乱への対処で、主に家康が主導した。
翌慶長5年(1600)2月頃、家康が仲裁に入ることで、庄内の乱は鎮圧したのである。この職務も、五大老の恒常的な職務ではなく、突発的な事態に対する対処だった。
それは、慶長4年(1599)末から翌年にかけて勃発した宇喜多騒動も同じことで、家康は2つの家中騒動に介入することで、存在感を高めたのである。
五大老の第三の職務は、諸大名へ領地を与えることで、もっとも重要な職務である。領地の給与は、豊臣家の専権事項だったが、後継者の秀頼が幼かったため、五大老が職務を代行していた。
五大老の発給文書の約6割は、各大名への知行宛行状なので、中心的な職務だったのは明白だろう。五大老のもっとも重要かつ恒常的な職務は、諸大名への領地の給与なのである。
一方、五奉行の職務の第一は、主要都市(京都、大坂、堺、長崎など)の支配である。主要都市は、経済の面でも重要視されていた。しかし、もっとも重要な職務は、豊臣家直轄領(蔵入地)の統括である。
豊臣家の直轄領のうち、畿内に所在するものは豊臣家直属の家臣あるいは寺社を代官に任命した。地方に所在するものは、当該地域の大名を代官に任じた。五奉行がこれを統括したのである。
五奉行は米を金銀に交換させたり、蔵米を納入させるよう指示した。つまり、五奉行は豊臣家あるいは豊臣政権の財政を運営・管理していたのである。五奉行の面々は、太閤検地でも中心的な役割を果たしていたので、当然のことといえよう。それが五奉行の権力の源泉だった。
さらに、諸大名への知行給与は五奉行が主導し、五大老は秀頼の代行として知行宛行状に署名するだけで、五奉行が決めた知行給与を執行していたに過ぎなかった。
五大老の重要な職務が五奉行の指示で行われたので、豊臣政権の運営は五奉行が中心だったということになる。堀越氏は、それを豊臣家「年寄」を自認した「五奉行」による、「奉行―年寄体制」と指摘する。
主要参考文献
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館)