【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条政範はなぜ死んだのか。その真相に迫る
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠と北条一族との対立が激化した。ところで、今回は北条政範が急死したが、その経緯を詳しく掘り下げてみよう。
■北条政範とは
北条時政には、長男・宗時、長女・政子、次男・義時らの子供がいた。長男の宗時は、治承4年(1180)8月の石橋山の戦い後、逃亡する途中で討ち死にした。
政子の母は不詳であるが、宗時と義時の母は、伊東祐親の娘だった。今回、登場した北条政範は、時政と後妻の牧の方の間に誕生した子供である。
時政が牧の方を妻として迎えたのは、治承4年(1180)のことである(婚姻の時期は諸説あり)。牧の方は牧宗親の娘(あるいは妹)といわれ、京都で生まれ育ったという。文治5年(1189)、牧の方は政範を産んだ。
政範は元久元年(1204)4月に従五位下・左馬権助に叙位任官されたので、時政の後継者に据えようとしたとの説がある。母・牧の方の出身も考慮されたに違いないが、政範が有力な存在だったのは明らかだ。
■政範が急死した事情
元久元年(1204)10月、政範は3代将軍・実朝の妻(坊門信清の娘)を鎌倉に迎えるため上洛した。幕府は上洛の際、威勢を示すため数百騎の軍勢を編成していた。
上洛の際の政範は、御家人の代表に位置付けられていた(『吾妻鏡』)。また、時政も上洛に同道していたのは、実朝の貢献たることを朝廷に知らしめるためだろう。
政範は同年11月3日に京都に入ったが、同年11月5日に急死した。病気に罹って亡くなったという(『仲資王記』)。政範の死が鎌倉に報告されたのは、11月13日のことである(『吾妻鏡』)。
政範の死を知った牧の方は、悲嘆に暮れたというが、それは母として当然だろう(『吾妻鏡』)。結局、政範の遺骸は、京都の東山に葬られたが、墓の詳しい所在地はわかっていない。
■まとめ
政範が急死した理由は、史料にも書かれておらず判然としない。当時は医療技術が未熟だったので、たとえ若者であっても、ちょっとしたことで死に至ることはあった。政範の死は、その後の時政と牧の方の動静に大きな影響を与えたのである。