日本は世界トップの“働けど貧困国”?
“富裕層”の連鎖と“貧困”の連鎖が加速している。
100万ドル(約1億円)以上の資産を保有する、日本の富裕世帯数は124万世帯となり、米国、中国に次いで世界3位となる一方で、「生活が苦しい」と全世帯の6割、母子世帯の84.8%が答えた。
しかも、「子どもの貧困率」が16.3%と過去最悪を更新し、これは先進国でもトップレベルだ(平成25年度 国民生活基礎調査の概況)。
子どもの貧困率が年々上昇している背景に、シングルマザーの増加や、非正規雇用の低賃金が存在していることは言うまでもない。
が、親が働いているにもかかわらず、子どもが貧困であるという現象は、世界的に極めて珍しい現象。2008年のOECDのデータでは、働いている1人世帯の子どもの貧困率は、OECD加盟国中で最も高かったのである。
つまり、働けど働けど生活は楽にならない、「努力するだけ無駄」な社会が、今の日本の姿なのだ。
いつ間にやら、グローバル化が当たり前の世の中になってしまったが、グローバル化とは、デキる人“だけ”しか生き残れない社会に拍車をかけるモノ。一部の人と企業にしか利益をもたらさない。
そして、その戦いに敗れた人たちの子どもが、貧困になる。
子どもの貧困は、学力低下や、不登校、ひきこもり、高校の中退……、最悪の場合、自殺の引き金にもなる。
子どもの自殺というと、「いじめ」ばかりがクローズアップされるが、実際には貧困が原因とされる自殺のほうが多いのだ。
2011年以降に自殺した国公私立の小中高校、特別支援学校の児童生徒約500人について実態を調査したところ、経済的困難で将来を悲観した自殺が5%と、いじめの2%を上回っていることが明らかになっている(文科省調べ)。
完全なる負の連鎖――。「日本の貧困は生きていけないほど貧しくない」などと平気で口にする人たちは、この実態をどう受け止めるのだろうか。
ブランド服に身をまとい、夏休みを海外で過ごす子どもたちがいる一方で、貧困の負のスパイラルに引きずりこまれる子どもたちがいる。書いているだけで、暗澹たる気持ちになってしまうのだが、子どもたちの6人に1人がこういった状況に置かれている。6人に1人。そう、6人に1人だ。
政府は「子供の貧困対策」の大綱案をまとめ、月内にも閣議決定するが、その内容は「6人に1人」という危機感を、どこまで感じているのか少々疑問を抱くものとなっている。
もちろんこれが、子どもの貧困解消への最初の大きな一歩になるんだとは思う。でも、子どもを育てる“親”の賃金、非正規雇用の賃金の低さ、これらも合わせて具体的に実効性のある政策に取り組む必要がある。
もっともっと危機感をもったほうがいい。だって、子どもの貧困は、私たちの“常識”を覆す問題を生み出すまでになっているのだ。
両親の学歴や、所得、職業から、子どもたちが生まれ育つ家庭の社会的階層(Socioeconomic status:SES)をとらえ、上位、中位、下位に分類したところ、学校外での学習時間は、階層上位グループの子どもが一日あたり76.6分であるのに対し、中グループでは60.7分、下位グループでは55.4分と明らかな差があり、「授業の理解度」でも明確な階層差があった(『学力と階層』(苅谷剛彦氏))。
が、それ以上に深刻な差が認められたのが、学習へのかかわり方、すなわち「学習への意欲」だった。
「学習への意欲」を社会階層で分析した結果、階層下位の子どもたちほど、「学習への意欲」が低いことが明らかになった。少人数授業などを取り入れ、熱心に取り組んでいる地域でさえ、階層格差に起因する「学習意欲差」を縮小するのは難しいことが、調査結果から示されたのである。
私たちは、「努力」というのは、誰もが気持ち次第でできるものだと考える。だが、それは本人の問題ではなく、子どもたちの出身階層に強く影響される「能力」だったのである。
その理由を私は、階層上位の家庭の親たちが、競争に勝った人々であることが関連していると考えている。
勝つためには、当然、努力が必要となる。
「努力」なんて言葉を使うと、根性、忍耐など同様、究極の精神論のようで、スマートに生きてきたエリートには、泥臭く聞こえるかもしれない。
だが、人は何かしら動機づけられるから、努力する。会社の出世競争に勝つため、収入を多く得るために努力し、その努力が実ったとき、競争に勝つ。
そういう親のもとで育つ子どもは、「努力する」ことの意味と、「本人の努力次第で手に入るものがある」ことを自然と学ぶ。
一方、階層下位の家庭の親たちは、「努力しても報われなかった」人たちといっても過言ではない。
働いても働いても、生活は楽にならない。生活することに必死だから、「学びたい」という欲求があっても、余裕のない生活に追われ、気持ちも次第に萎える。
“貧困の蜘蛛の巣”から、どうあがいても脱することができない人々は、「努力するだけ無駄」と、努力を放棄するようになる。それは、子どもたちが、努力することの意味を学ぶ機会を失うことでもある。
おまけに、生活に余裕がない家庭では、仕事に忙しくて子どもと向き合う時間もない。子どもががんばってテストでいい点をとっても、「頑張ったね!」と褒めてあげる機会も制限される。
貧困という経済的な問題が、子どもとの“関わり方”にまで波及していくのだ。
小学校の先生をやっている友人が、経済的に困窮している家庭の子どもほど、授業についていけなくなると、「私バカだから、わからな~い」と投げ出す傾向が強いと嘆いていた。
「努力」のスイッチが、どこにあるのか?
どうしたら、努力ができるのか?
なぜ、努力しなきゃいけないのか?
それらがちっともわからない。
頑張って学力を上げなければならない子どもたちほど、「踏ん張って努力する力」が低い。それが、階層格差の実態であり、見過ごされがちな重大な問題なのだ。
前述の苅谷さんは、「自ら学ぶ力=努力する力」とは、生きる力であると説く。変化が激しく、不確実性の高い時代では、この自ら学ぶ力が、もっとも重要な力で、この力が、家庭環境の影響を強く受けることを考慮すると、「この学ぶ力の違いが、次世代にも持ち越されることになるかもしれない」と警鐘を鳴らし、教育の重要性を指摘している。
社会の階級格差が、子どもたちの学力低下問題だけではなく、人間の本質的な力である「生きる力」に影響を及ぼすという考え方は、私の専門分野であるSense Of Coherence(首尾一貫感覚、SOC)とも、共通している。
SOCは先天的なものではなく、後天的に育まれる力で、幼少期の生活環境、親の関係性は、子どもの成長過程におけるSOCの形成に大きな影響を与える。
SOCとは、「どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから、前に進もうとする、前に開かれた力であり、「人生を生き抜くために、努力する力」だ。
SOCの高い人は、自分の人生にとって意味ある出来事、あるいは大切な出来事に関する危機に遭遇したときに、それを『自分に対する挑戦だ』と考え、
「どうにかして対峙してやる。立ち向かっていくことは自分の人生にとって必要だ」
と、動機づけられ、それを必死で乗り越える。つまり、努力することの意味も、それを乗り越えるために“努力する力”も、身に付けているのである。
「本人の努力が足りなんだよ」
「頑張るしかない。努力するしかないんだよ」
ついついこんな言葉をこぼしてしまうが、努力とは“育まれていく力”。
もっともっと「親が働いているにもかかわらず、子どもが貧困である」という事実に、危機感を持って取り組まなくてはならない。
そして、もし、「私はバカだから」「私、頭悪いから」と、言葉にならない悲鳴を上げてしまう、努力する力が低い人がいたならば、その力を育む“手ほどき”を、周りの人たちにはして欲しいと思う。
おそらくそれはとてつもなく労力のいることだし、そう簡単に上手くいくものではないだろう。
だが、「あなたは大切だ」という価値あるメッセージを繰り返し経験することは、SOC形成にとても有効である。
20歳を過ぎても、30歳を過ぎても、いくつになっても、たった1人でいいので、自分を大切だと思ってくれる人がいる、“質のいい環境”に身を置くことさえできれば、生きる力は高められる。
「私にはそんな人いない……」――。
そう嘆いている方も、是非、もう一度周りを見渡してほしい。
きっといると思いますよ。うん。きっと。少しだけいい人生にするためにも、周りを見渡してみてください。