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西武・そごう「わたしは、私。」広告に寄せられた賛否両論から読み解く「女性活躍」の複雑さ

治部れんげ東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授、ジャーナリスト
パイ投げが表す「女性の生きづらさ」はどうしたらなくなるでしょうか(ペイレスイメージズ/アフロ)

 新年早々、西武・そごうの広告が賛否両論の議論になっています。SNS等で話題になっているため既にご覧になった方もいるかもしれません。

 1分ほどの短い動画です。四方八方からパイを投げつけられ、顔も体もクリーム状のものがくっついている女性が、元気そうな様子で語っています。ポスターは、パイを顔にぶつけられた女性の写真に「女の時代、なんていらない?」と大きな文字で書かれています。最近数年、政府が主導している「女性の活躍」や「女性の社会進出」に対して異議申し立てをしているような内容でした。

個人の好き嫌いは自由だが…

 最初に私の立場を述べておきましょう。私はこの広告を見た時、不快感を覚えました。つまり、好きではありません。後に記す理由から社会的な影響力の大きい企業の発信としてはふさわしくない、と思います。

 一方で、この広告を見て「面白い」と思ったり「何だか元気が出た」と感じたり、つまり、肯定的に見る人の気持ちも分かるような気がします。

 私は表現の自由を重視すべきと考えますので、同じものを見て「好き」と思う人がいてもいいし「嫌い」と思う人がいてもいいと思っています。一定のルールを守っていれば表現するのも自由ですし、その賛否を表明することもまた、表現の自由の一形態と言えるからです。こういうことを前提に、この広告が大企業の発信として「ふさわしいと思わない」理由をこれから述べていきます。

「女性活躍」は「女性優遇」なのか?

 最初に、ビジュアルで「パイ投げ」として表現される行為が何なのか、考えてみましょう。動画では「女だから、強要される。女だから、無視される。女だから、減点される」と言っています。あまり想像力を働かせなくても、投げつけられるパイが「女性であるがゆえに感じる生きづらさ」を表していることは理解できると思います。

 「女性の生きづらさ」を解決するため、もしくは生きづらさを少しは軽減するため、政策として出てきた「女性活躍」に対して、動画は違和感を呈しています。そして「男も女もない」のであって「わたしは、私」なのだ、と主張します。

 様々な意見を総合すると、この広告に共感を寄せる人々は「女性活躍」関連の政策を「女性が不当に優遇される」と感じているように見えます。「女だからと特別扱いされたくない」「女だから高下駄を履かされたのではなく、自分の実力で抜擢されたと思いたい」…こうした声は、女性活躍に着手した企業の多くがごく最初のうちに遭遇する女性からの反発です。

 その意味で「わたしは、私」広告は「女だからって損しているわけではない」とか「自分は女性だからと差別を受けた覚えはない」と考えている女性たちの本音をすくい上げている、と言えるでしょう。

私は差別されてない、と思う人の特徴

 このように考える女性は、年齢が若いほど、学歴が高いほど多くいます。彼女達の多くは学校空間で性差別を実感することはほとんどなく、就職においても「むしろ女子が有利」と感じているくらいです。おそらく、入社数年後は同じような気分かもしれません。私自身、会社員になってしばらくは、そう思った時期もありました。

 けれども、20代から30代始めを「女の方がトク」と思って過ごしてきた女性たちの多くが結婚し出産すると突然気づくのです。それは、無制限に残業ができなくなった途端、同期の男性に昇進で追い越されることだったり、学生時代は対等なつもりだった夫が家事育児を全然やらないことだったりします。要するに、女性がトクしていないばかりか、まだ有形無形の差別が存在している事実に直面するのです。

 こうして「産むまでの平等」「本気で男性とポスト争いするまでの平等」という現実に直面した女性が、これまでと180°違う意見を述べるのを、繰り返し見てきました。彼女達にとって、性差別とか男女不平等というのは、自分の身に降りかかってこない限り、どこか別の世界の出来事にすぎません。

10年後、同じ広告を好きと思うか?

 そういう女性たちを責めても仕方ないと思うのは、先に書いたように私も20代はそんな風に考えた時期があったからです。今、この広告を「いいな!」と思う方は、ぜひ、10年後に同じ気持ちでいるかどうか、確認してみてほしいと思います。いささか気の長い話ですが、感受性というものは、人から言われて変わるものではありませんので。

 さて、話を「見る側」から「作る側」に移しましょう。

問題を追認するだけでは企業の社会責任を果たせない

 私がこの広告をいちばん「よろしくない」と思ったのは「パイを投げる人」や「パイを投げるような状況」を批判的に考察しないことです。それどころか「パイをぶつけられる人」の受け止め方を問題視しています。これでは問題を追認しているだけにすぎません。

 投げられるパイが、女性であるがゆえに遭う困難(例えば痴漢、例えば医大入試における差別)を表しているという、前述の推測を踏まえて考えれば、解決策は「痴漢や入試差別をなくす」といったあたりでしょうか。少なくとも女性たちの気の持ちようという話ではないはずです。

女の時代が遠ざかるのは報道のせい?

 ポスターに書かれた文を見てみましょう。最初の段落にこのように書かれています。

「女だから、強要される。女だから、無視される。女だから、減点される。女であることの生きづらさが報道され、そのたびに『女の時代』は遠ざかる」

 最初の3つの文章は、2018年に起きたいくつかの出来事を想起させます。しかし、最後の一文は、おかしいです。「女の時代」を遠ざけているのは、問題を「報道すること」でしょうか? そうではなく「問題の存在」が「女の時代」を遠ざけているのではないでしょうか。

 試しに他の話題で同じロジックの文章を作ってみましょう。

「子どもだから、不審者に出会う。子どもだから、事故に遭う。子どもだから、誘拐される。子どものリスクが報道され、そのたびに『子どもの安全』は遠ざかる」

 どうでしょうか。文章の流れや事実関係からいって、子どもの安全を損なっているのは不審者であり、信号無視の車であり、誘拐犯です。子どもが犠牲になる事件を「報道すること」が子どもの安全を損なっている、というのは論理的におかしいことは明らかです。

 このように別の事象を当てはめると分かりやすいのに、こと「女のはなし」になったとたん、論理がつながらなくなるところに、ジェンダー問題の特徴があります。

「女性活躍」という言葉への違和感

 続く段落は筋が通っているように思えます。

「今年はいよいよ、時代が変わる。本当ですか。期待していいのでしょうか。活躍だ、進出だ、ともてはやされるだけの『女の時代』なら、永久に来なくてもいいと私たちは思う」

女だけ働け、とは言っていない女性活躍法

 私は女性活躍関連の講演で日本各地に行く機会があります。面白いことに「女性活躍」を謳った県や市の講演会でも、参加者に尋ねると9割方が「女性活躍という言葉には違和感を覚える」と言うのです。これは、都内で働く、見た目は活躍している女性も同様です。なぜでしょうか?

 この違和感は「女性だけが自力で頑張って、もっと働いてお金を稼げ」と言われているように感じるところからきています。しかし、実際に女性活躍推進法が第2条2項で述べているのは、そういうことではありません。

 法律の条文は明確に、男女が協力し合って、仕事と家庭生活を両立し、地域のこともできるような社会が望ましい、ということを言っています。女性が出産や育児で離職することが多い現状を踏まえつつ、男女ともにワークライフバランスが取れる社会を目指しましょう、というのがこの法律の趣旨です。

 このように説明すると、講演参加者は笑顔になったりうなずいたりして「女性活躍」の真意を理解していきます。

 西武・そごうの広告コピーは多くの女性の本音を表したものである一方「女性活躍」という言葉が生まれた背景や政策に対する理解がないことが残念でした。ここは、政府や行政、私たちのように関連業界で働く者が、もっと真意を伝えていく必要があると反省した部分です。

 さて、話を「わたしは、私」のCMに戻します。

 動画を何度か見ているうちに、違和感の正体に気づきました。このCM、使われている「ことば」の方は、第一段落の4つめの文章以外は、文字だけで読むと、腹に落ちる面があります。少なくとも、そういう風に考える人の気持ちは分かります。

パイをぶつけられても文句を言うな?

 最大の違和感は、やはり、パイをぶつけられている女性というビジュアルにあります。

 考えていただきたいのは「パイをぶつけられる」というのは、どういう状況か、ということです。宴会など特殊な状況でなければ「イヤなこと」でしょう。ナレーションが現代美術風に入っているため、何となくアートっぽいのか?  と思って見てしまいますが、パイをどんどんぶつけられるのは怖かったり、嫌だったりするはずです。

 もし、ぶつけられる人に気力があれば「いいかげんに、それ、投げるのはやめて!」と制止するでしょう。私だったら相手の持っているパイを取り上げて投げ返すと思います。気の弱い人なら「やめて」と言って逃げるか泣き出すかもしれません。

 パイの形で表された、有形無形の「女ゆえの生きづらさ」。それから逃げたり、泣いたり、怒ったりすることなく、むしろ対抗言説である「女の時代」を否定して見せる。

 それは、現にある男女格差や女性に対する暴力や、差別を受け入れてほほ笑むように勧めているようで気持ちが良くありません。ゆえに、個人的に「面白い」と感じるのは自由ですが、社会的責任を負う大企業の発信として適切なものではない、と私は思います。

追記:私は真の男女平等を願う立場から、男性に対して差別的な表現や社会構造についても執筆してきました。今、読めるものでいちばん古いのは、2007年2月、NBオンラインに掲載された「語られざる男性差別」です。

東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授、ジャーナリスト

1997年一橋大学法学部卒業後、日経BP社で16年間、経済誌記者。2006年~07年ミシガン大学フルブライト客員研究員。2014年からフリージャーナリスト。2018年一橋大学大学院経営学修士。2021年4月より現職。内閣府男女共同参画計画実行・監視専門調査会委員、国際女性会議WAW!国内アドバイザー、東京都男女平等参画審議会委員、豊島区男女共同参画推進会議会長など男女平等関係の公職多数。著書に『稼ぐ妻 育てる夫』(勁草書房)、『炎上しない企業情報発信』(日本経済新聞出版)、『「男女格差後進国」の衝撃』(小学館新書)、『ジェンダーで見るヒットドラマ』(光文社新書)などがある。

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