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黒田長政は調略戦だけでなく、関ヶ原本戦で石田三成勢を蹴散らして西軍を瓦解させた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田節像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で東軍が西軍に勝利したが、黒田長政の戦功は目立たたなかった。長政は調略戦で活躍したが、関ヶ原本戦で石田三成勢を蹴散らし、東軍を勝利に導いた。その辺りを詳しく確認しておこう。

 関ヶ原合戦当日の慶長5年(1600)9月15日、長政は約4500の兵を率い、竹中重門(半兵衛=重治の子)とともに丸山狼煙場に着陣した。

 この場所は、西南に松尾山(小早川秀秋の陣営)、東に南宮山(毛利氏らの陣営)、東南に養老山が位置し、しかも関ヶ原一帯が見下ろせる絶好の地にあった。とはいえ、松尾山や南宮山には、西軍の主力が陣を置いていたことに注意すべきだろう。

 正面には、西軍を率いる石田三成の陣営があった。三成を討つよう命じたのは家康なのだから、長政がいかに家康から信頼を得ていたかわかる。

 一方、合戦当日になって、先述した小早川氏や毛利氏は西軍から東軍に寝返っていた。そうした情報は、すでに長政の耳に入っていたと考えられる。

 合戦開始と同時に、長政の部隊は三成の軍勢と戦い、あっという間に勝利を収めた。なかでも家臣の菅六之助は、島左近(清興)を討ち取る軍功を挙げた。

 清興の死によって石田勢の士気は下がり、やがて瓦解することとなった。以下、『黒田家譜』の記述をもとに、長政の家臣の戦いぶりを確認しておこう。

 黒田家の一番槍は、わずか16歳の黒田蔵人である。一番槍は、戦場における最高の栄誉だった。蔵人は時枝平太夫の次男で、妻は荒木村重の家臣・加藤重徳の娘だった。

 あまりの活躍ゆえに、戦後に福島正則が蔵人を召し抱えたいと長政に申し出た。長政は断りにくかったので、蔵人を正則に与えたという。のちに正則が改易されると、蔵人は細川忠興に5000石で召し抱えられた。

 黒田三左衛門も活躍した一人である。三左衛門は名を一成といい、先述した加藤重徳の子であった。天正7年(1579)、荒木村重が織田信長との戦いに敗れて放逐されると、三左衛門は黒田家に召し抱えられ、戦後は三奈木黒田家の祖となった。

 関ヶ原合戦を機にして、三左衛門は大出世を遂げたのだ。三左衛門には、東軍として出陣した伊丹勝長(忠親のことか)とのエピソードがある。勝長は、摂津の名門・伊丹氏の流れを汲んでいた。

 天正6年(1587)の荒木村重の放逐後、勝長は牢人生活を送っていた。勝長は東軍に与するに際し、家康から軍功を挙げることを条件として、摂津で本領を与えられる約束を交わしたという。

 ところが、出陣した勝長は不運なことに、敵と遭遇して槍で戦ったものの、深手を負ってしまったのである。実は、勝長と三左衛門は、ともに村重を介した旧知の間柄だった。

 三左衛門は勝長に怪我を負わせた敵を難なく討ち取ると、その首を勝長に渡し、さらに先へと進んだ。討ち取られたのは安宅木作右衛門といい、あるいは生け捕ったとも伝わる。その後、三左衛門は石田三成の重臣・蒲生将監(安藤直重)を討ち取るなど大活躍した。

 しかし、その後になって、三左衛門は勝長が討ち死にしたことを知る。三左衛門が遺骸を回収しようと人を遣わすと、勝長は敵に乗りかかった状態で亡くなっていた。三左衛門は近くの僧侶を呼び、勝長の菩提を弔ったという。

 こうして長政は配下の者の活躍もあり、石田勢との激戦を制したのである。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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