【その後の鎌倉殿の13人】北条義時の遺産相続ー嫡男・泰時の相続分が少ない訳
貞応3年(1224)、北条泰時は、父・義時を病で失いました(同年6月)。その直後には、義時の後妻・伊賀の方とその親族(伊賀光宗)が、北条政村(義時と伊賀の方との子)を執権に擁立せんとしているとの疑惑が持ち上がり、処分されるという「伊賀氏の変」が起こっています(8月、伊賀の方は伊豆国北条に追放)。
懸念が解消された後、亡き義時の遺産(荘園)の配分が行われました。義時の遺産は男女を問わず、配分されました。「誰がどのくらいの遺産を貰う」という配分に関する書類は、北条政子から泰時に先ず、手交されます(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。その後に泰時から弟らに回覧されたのでした。「内容に異議があるならば、仔細を申しべし」と言うことでしたが、泰時の弟らは、不満を言うことなく、皆、喜んでいたそうです。
実は、義時の遺産の配分書は、義時が亡くなってすぐ、姉の政子が差し押さえていました。そして、京都の六波羅から鎌倉に戻った泰時に密かに見せていたのです。政子は「配分は大体、これで良いでしょうが、嫡男(泰時)への配分が少な過ぎませんか。どうしたことでしょう」と嘆いたようです。が、泰時は「私は執権職を継ぐのです。どうして、所領配分を強く望む必要がありましょう。所領は弟たちに与えてください」と意に介さず。
泰時のこの無欲さに、政子は涙を流して、感激したそうです。泰時は強く主張すれば、多くの遺産を相続できたでしょうが、それによって生じる兄弟間の不和や、幕府の不安定化を懸念したのでしょう。