<朝ドラ「エール」と史実>名曲「六甲おろし」があっさり流されたことには“深いワケ”があった?
朝ドラ「エール」も、1936年になりました。
クーデタ部隊に東京中心部が占拠された二・二六事件があり、翌年には日中戦争が勃発する、そんな時代です。
スピンオフはまだ続くようですが、見逃せないのは、「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」の誕生が、あまりにあっさり流されたことでしょう。
阪神ファンは、あっけにとられたかもしれません。ただ、そこには深いワケもあったのではないかと思います。
作られたレコードはたった200枚
「六甲おろし」は、1936年、新設されたプロ野球球団・大阪タイガースの応援歌として生まれました。
そのため、佐藤惣之助が書いたオリジナルの歌詞も、つぎのように「大阪タイガース」となっています。
名曲の記念すべきデビューですが、そのレコードはたった200枚しか作られませんでした。
本格的なプロ野球リーグが、日本で成立して間もない当時。プロ野球は、大学野球などにくらべて、圧倒的に人気がなかったのです。
「オウオウオウオウ」で韻を踏んでいた?
「六甲おろし」は、古関にとっても、それほど思い出深い曲ではなかったようです。
時代はすぎて、阪神タイガースと改称した球団が、1985年、21年ぶりにリーグ優勝したときのこと。「六甲おろし」があちこちで流れて大ヒットし、作曲者である古関のもとにも取材が殺到しました。
ところが、とうの本人が「どんな曲だったかねー」と忘れていたと、長男の古関正裕氏は証言しています。
もっとも、古関も完全に忘却したわけではなく、つぎのように述べていることも指摘しておきましょう。
これは面白いですね。「大阪タイガース」が「阪神タイガース」に変わってしまって、「オウオウ」と「大阪」の連動がなくなってしまったと惜しんでいるわけです。
「どんどん忘れていく――というより捨てている」
こんな名曲を忘れるなんて。そう思うかもしれません。
ただ、古関は自伝で「過去に作曲したものは、一部覚えているものもあるが、どんどん忘れていく――というより捨てている」と述べています。
それでなければ、5000曲もの作品は残せなかったでしょう。
こういう歴史を踏まえると、「六甲おろし」が朝ドラで「軽く扱われた」ことも理解できるかもしれません。