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【深読み「鎌倉殿の13人」】流人生活を送っていた源頼朝の恋愛事情とは(後編)

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、最終的に北条政子と結ばれた。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 いよいよ始まった大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。昨日、源頼朝の1度目の恋愛を取り上げたが、今回は頼朝の2度目の恋愛を取り上げることにしよう。

 なお、前編はこちら

■源頼朝と北条政子の恋愛

 2度目の恋愛は、源頼朝を窮地から救った、北条時政の長女・政子だった。

 政子が誕生したのは保元2年(1157)で、頼朝より10歳年下である。2人が結ばれたのも、時政が京都大番役として上洛しているときで、祐親の娘のときと同じタイミングだった。

 白昼、2人が堂々と会うことは、かなり困難だったと考えられる。あくまで推測にすぎないが、2人は監視の目をうまく逃れて逢瀬を重ねていたのだろう。

 そして、2人が結婚したのは、治承元年(1177)であるといわれている。2人の関係をめぐっては、いくつかのユニークな逸話が残っている。

■2人の結婚を恐れた時政

 『源平盛衰記』によると、頼朝と政子の関係を知った時政は、この事実が平氏に露見することを恐れたという。婚姻は家の存続にもかかわる問題だったので、当然のことである。

 時政が平氏に刃向かった流人の頼朝を娘と結婚させることは、躊躇せざるを得なかったと考えられる。頼朝に対する時政の考え方は、伊東祐親と同じである。

 そこで、時政は伊豆国の目代を務めていた山木兼隆に政子を嫁がせようとした。山木氏は、伊豆国山木郷(静岡県伊豆の国市)に本拠を置く豪族だった。

 平氏の庶流である兼隆はかつて流人であったが、平氏政権の成立とともに伊豆国の目代になっていた。兼隆との結婚は平氏との関係強化につながるので、政子の相手としては好都合である。

 その後、政子は兼隆の屋敷で婚儀を結ばされそうになるが、こっそりと屋敷を抜け出し逃亡した。そして、雨のなかを伊豆権現へ向かい、頼朝と結ばれたという。

 雨のなかを頼朝のもとに向かったという話は、のちに『吾妻鏡』にも記されている。2人の情熱的な恋愛のエピソードとして有名な話である。

■疑問が残る通説

 ただ、以上の説には疑義が示されている。実は、兼隆が伊豆に流されたのは治承3年(1179)のことであり、年代的に矛盾するというのである。

 『曽我物語』には、2人を結び付ける奇妙な逸話が記されている。ある日、政子の妹が奇妙な夢を見た。それは、日月(太陽と月)を掌でつかむというものである。

 ちなみに政子の妹は、のちに頼朝の弟・阿野全成の妻となり、阿波局と呼ばれた女性である。なお、阿野全成は、建仁3年(1203)に謀反の嫌疑を掛けられ殺害された。

 夢を不吉と感じた政子は、妹にその夢を買い取ると持ち掛け、代金の代わりとして小袖を与えたという。当時は迷信が信じられており、不吉な夢を売ると、災い転じて吉になると考えていた。

 結局、妹の夢を買った政子には幸運が訪れ、のちに鎌倉幕府を開いた頼朝と結婚したということになろう。これもまた大変ユニークな話である

 いずれも信じがたい話であるが、まもなく2人の間には女子(大姫)が誕生し、時政も認めざるを得なくなった。こうして頼朝と政子は、晴れて結ばれたといえよう。

■むすび

 時政が2人の関係を認めたというのは、いわゆる「できちゃった婚」で渋々という性格のものではない。

 そこには、今後起こるであろうことについて、強い覚悟を持った決断だったといえる。その点は、また追々・・・。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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