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【深読み「鎌倉殿の13人」】流人生活を送っていた源頼朝の恋愛事情とは(前編)

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝像。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 いよいよ始まった大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。先日、源頼朝の流人生活を取り上げたが、今回は頼朝の2度にわたる恋愛を取り上げることにしよう。

 なお、後編は明日の公開。

■源頼朝と平治の乱

 少年期から壮年期を伊豆で流人として過ごした頼朝にとって、結婚は重要な問題だったに違いない。流人とはいえ、後継ぎが欲しかったのは、当時として自然な気持ちである。

 頼朝は、源氏という名門の血を絶やすことは本意ではなかった。実のところ、伊豆時代の頼朝は、2回の恋愛を経験しているようだ。

 1度目の恋愛の相手は、伊東祐親の三女・八重である。頼朝はもう20代になっていた。当時、15・6歳で妻を迎えるのが普通なので、あまりに遅かった。流人の悲哀である。

 伊東氏は伊豆国伊東(静岡県伊東市)に本拠を持つ豪族で、頼朝の監視役を担当していた。

 祐親といえば有名なのは、伊東荘をめぐって同族の工藤祐継父子と争ったことだ(のちの曽我兄弟の仇討ちにつながる)。

■子をもうけていた頼朝

 祐親が京都大番役(皇居や院の警備)のため上洛すると、その隙を狙って2人は関係を結び、千鶴という男子までもうけていたという。

 2人の関係を知った祐親は激怒した。頼朝は伊豆に流された罪人であり、平氏の宿敵でもあった。当時の結婚は恋愛ではなく、豪族間の関係を強化する政略によるものだった。

 2人の関係が平氏に伝わることを恐れた祐親は、松川の上流の稚児ヶ淵(静岡県伊東市)に千鶴を沈めて殺害した。のちの憂いを断つためで、残酷だが止むを得なかったといえよう。

 その後、祐親は2人を引き離し、八重を別の伊東の豪族・江間小四郎のもとに嫁がせたという。ちなみに、この江間小四郎とは、のちの北条義時とは別人である。

■頼朝暗殺計画

 祐親は2人を引き離しただけでなく、安元元年(1175)に頼朝の殺害を企てた。祐親にすれば、平氏との関係を考慮すると、頼朝を討ち取ることが大きな手柄になると考えたのだろう。

 頼朝の危機を救ったのが、祐親の次男・祐清だった。祐清の妻は比企尼(源頼朝の乳母)の三女であり、そのことが関係していたと考えられる。

 祐清は頼朝に父(祐親)が殺害の準備をしていると知らせると、頼朝は夜遅く馬を飛ばして走湯権現(静岡県熱海市)へ逃れ、北条時政に助けを求めたのである。

 こうして、頼朝は時政の館に匿われ、暗殺からの危機を脱した。頼朝の恋愛は流人であったがゆえ、いつ殺されてもおかしくなく、命がけだったに違いない。

■むすび

 治承4年(1180)10月に頼朝が挙兵すると、平氏に属した祐親は富士川の戦いで捕縛された。その際、女婿の三浦義澄の口添えで助命されたが、自殺したのである。悲惨な最期だった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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