豊臣秀吉とイエズス会宣教師が日本人奴隷の人身売買について口論となった真相
映画祭授賞式で、フランス人女優のジュディット・ゴドレーシュさんがフランス映画界における「女性の不法人身売買」の隠ぺいを批判したという。こちら。かつて、我が国でも人身売買が行われていたが、豊臣秀吉の時代はそれが国際問題となった。その辺りを取り上げることにしよう。
天正14年(1583)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏を屈服させた。戦場となった豊後国では農民らが捕らえられ、九州の諸大名(あるいは従軍した将兵)が連れ去った。
捕らえられた農民らは労働に使役させられるか、奴隷として売買されたのである。これを「乱取り」といい、出陣した将兵はモノや人を略奪することが軍事慣行となっていた。
秀吉は人が捕らえられることによって田畑を耕す農民がいなくなり、そのことが戦後の復興を難しくすることを危惧し、諸大名に農民らの連行や売買を禁止した。
そこでは、奴隷商人が連行や売買に関与していた可能性が高く、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人も深くかかわっていたのである。
翌年4月、秀吉は島津氏を降参に追い込んだこともあり、意気揚々と博多(福岡市博多区)に凱旋した。そこで、秀吉が目撃したのは、次々と日本人奴隷がポルトガルの商船に詰め込まれ、運ばれていく様子だった。
先述のとおり、農民らがいなくなると、戦後復興は困難になる。そのような理由もあり、秀吉は強い決意を持って、日本人奴隷の人身売買の問題に取り組んだ。
同年6月、秀吉はポルトガル商人が日本人奴隷を売買、連行することについて、ガスパール・コエリョ(イエズス会日本支部準管区長)と激しい口論になった(『イエズス会日本報告集』)。
次に、お互いの主張を挙げておこう。まず、秀吉がコエリョに尋ねたのは、ポルトガル商人が多数の日本人(主に農民)を買い求め、本国に連行する理由だった。
秀吉の問いに対してコエリョは、その理由として「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」と回答した。そして、「パードレ(司祭職にある者)たちは日本人が売買されることを大いに悲しみ、これを防止するために尽力したが、力が及ばなかった」と述べた。
さらに、「もし秀吉が日本人の売買の禁止を希望するならば、諸大名らに命令するべきだ」とし、「秀吉の命に背く者を重刑に処すならば、容易に人身売買を停止することができる」だろうと発言したのである。
コエリョは、宣教師が人身売買の問題を解決できないこと、また無関係であると主張したのである。コエリョの本心は不明であるが、苦し紛れの答えだった。
秀吉はイエズス会の事情がどうであれ、日本人奴隷を海外に連行することを決して許さなかった。こうしたことから、イエズス会にとって日本人奴隷の売買を黙認することは、キリスト教を伝えるうえでマイナス要因となった。秀吉の詰問によって、イエズス会は苦境に立たされたのである。