織田信雄は、なぜ羽柴秀吉を恐れたのか! あまりに予想外だった展開に焦る
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信雄が徳川家康を頼り、羽柴秀吉に兵を挙げようとしていた。信雄は、なぜ秀吉を恐れたのか。そこには、考えもしなかった予想外の展開があった。
そもそも信雄にとって、天正10年(1582)6月2日に父の織田信長が本能寺で討たれたことが予想外だったが、その後の展開も予想外だった。織田家の後継者は三法師(信忠の子)に決まっていたが、信雄は弟の信孝と国境をめぐって揉めていた。これが、失敗のはじまりである。
秀吉は清須会議で信長の遺領配分を行い、山城国(京都)などを獲得した。京都には朝廷もあり、政治の中心地だった。天下の範囲は京都を中心とした畿内だったことは、最近の研究により明らかにされた。秀吉は京都所司代を実質的に任命するなどし、主導権を握ったのである。
織田家の重臣・柴田勝家が秀吉に負けたことも、信雄にとって誤算だった。勝家には、前田利家らの武将が味方することになっていたので、よもや敗北はあり得ないと思っていたに違いない。しかし、利家は土壇場で勝家を裏切り、秀吉の軍事行動も見事だった。勝家は、呆気なく敗北した。
勝家を頼りにしていた信孝は、なす術もなく秀吉に屈した。敗北後、信孝は秀吉によって死に追いやられた。いかに信雄が信孝との関係が悪化していたとはいえ、ジリ貧である。大いに焦ったに違いない。このままでは、いかに三法師が健在とはいえ、秀吉に天下を掌握されるのは時間の問題だった。
当時、信雄は20代半ばの青年だったが、秀吉は40代の半ば。おまけに、秀吉は百戦錬磨の老練な手腕の持ち主だったが、信雄は若造に過ぎない。秀吉が最初から天下取りを狙っていたのかどうかは別として、流れはその方向に向いていた。信雄は、大いに悩んだに違いない。
信雄が秀吉の息の掛かった2人の家臣を殺害したのは、おそらく2人から秀吉への挙兵を反対されたからだろう。しかし、信雄は事前に2人の家臣を殺すことを家康に通告していたようなので、兵を挙げるのは既定路線だった。いかに、信雄が織田家の血を引くとはいえ、単独での挙兵は困難だった。
信雄にとって、秀吉が主導権を握ったことは予想外の出来事だった。ましてや、勝家、信孝が討たれることすら想定外だった。窮地に陥った信雄は、家康を巻き込んで兵を挙げ、起死回生を狙ったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)