【深読み「鎌倉殿の13人」】都落ちした平家が意外と頑張っていたという知られざる事実
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、無念にも都落ちする平家一門のシーンがあった。しかし、平家は意外と頑張っていたので、その点を深く掘り下げてみよう。
■頑張っていた平家
寿永2年(1183)に木曽義仲が入京したものの、配下の将兵が食糧を強奪するなどしたので、京都の人々は恐怖に打ち震えていた。
同年9月19日、この状況を見かねた後白河法皇は、義仲に対して平家を討伐するよう厳命した。命を受けた義仲は、わずかな軍勢を引き連れて播磨へ下向したのである。
私たちのイメージでは、都落ちした平家は没落の一途をたどったように思えるが、実際にはそうでなかった。以下、九条兼実の日記『玉葉』などで、平家の状況を確認しておこう。
都落ちした平家は、数百艘の船に乗って備前児島まで逃れた。そこからさらに船に乗って、九州の太宰府にたどり着いた。とはいえ、太宰府はいかに親平家の勢力が盤踞しているとはいえ、安住の地ではなかった。
九州の豪族は、平家の来訪を歓迎しなかった。もはや平家を落ち目と認識していたのだろう。そこで、平家一門はいったん長門に向かった。長門彦島は、平家の拠点でもあった。しかし、長門でも豪族らが反抗したので、泣く泣く讃岐屋島に落ち延びた。
平家は、当初の目論見通りにいかなかったが、大規模な水軍を編成することで、中国・四国の瀬戸内海沿岸を掌握し、屋島と児島を拠点として、再び上洛の機会を狙っていたと考えられる。
■義仲の敗北
同年10月になると、義仲は播磨へと入った。しかし、頼朝の動静は気になっていたようで、義仲は頼朝が上洛しなければ平家を討ち、上洛すれば北陸方面に逃亡する計画だったという。
実は、この段階において、途中で合流した将兵が逃亡するなどし、義仲の兵力は減少していた。結局、義仲は備中まで攻め込み、平家方の軍勢と戦ったが、敗北を喫した。
閏10月1日、平重衡・通盛は義仲軍と戦い、義仲方の有力な武将の足利義清らを討ち取った。この敗戦で義仲は戦意をすっかり失ってしまい、閏10月15日は帰京したのである。ここからが、地獄のはじまりだった。
■むすび
都落ち後の平家は転落する一方と考えがちではあるが、義仲の軍勢には勝利した。しかし、平家にも義仲にも、この後に過酷な運命が待ち構えていたのである。