余計な一言で謀反の疑いを掛けられ、抹殺された武将とは?
余計なことを言って、妙な疑いを掛けられることは、決して珍しいことではない。源頼朝の弟の範頼は、余計な一言で謀反の疑いを掛けられ、抹殺されたので、その経緯などを取り上げることにしよう。
久安6年(1150)、範頼は義朝の子として誕生した。治承4年(1180)、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、時期は不詳ながらも、範頼は兄のもとに馳せ参じた。その後、範頼は頼朝の命により、弟の義経とともに平家追討の軍勢を率いたのである。
文治元年(1185)、範頼と義経は壇ノ浦で平家を滅亡に追い込んだ。『平家物語』などでは、義経の活躍ばかりがクローズアップされるが、実際には範頼も軍功を挙げていた。これ以前、範頼は三河守に任じられていたので、頼朝の信頼が厚かったのは事実である。
ところが、義経は兄の命に背いて、後白河法皇から無断で官職を授かるなどした。やがて頼朝は義経と不和となり、追討することになった。義経が奥州で藤原泰衡に討たれたのは、文治5年(1189)のことである。いかに弟とはいえ、頼朝は容赦しなかったのだ。
建久4年(1193)、曽我兄弟による仇討ち事件が起こった。源頼朝が富士の巻狩りを行った際、曽我祐成・時致兄弟は父の仇の工藤祐経を富士野で討った。その際、頼朝が巻き込まれて、殺害されたとの一報が舞い込んだのである。もちろん、これは誤報である。
頼朝の妻の政子は嘆き悲しんだが、範頼は「あとには、私がおりまする」と発言した(『保暦間記』)。「頼朝様が亡くなっても、後継者には私(範頼)がおります」という趣旨の発言だが、頼朝は生きていたので、この発言に強い不快感を抱き、謀反さえ疑ったという。
範頼は慌てて頼朝に起請文を差し出したが、決して頼朝は許さなかった。すると、心配した範頼の家人の当麻太郎は、頼朝の寝所の下に潜り込んだが捕らえられた。当麻は「嘆く範頼様を思って状況をうかがうためにやったことで、謀反の意はありません」と述べた。
結局、頼朝は範頼を許さず、伊豆国に流した。範頼のその後は『吾妻鏡』に書かれていないが、『保暦間記』などには殺害されたとある。範頼の不用意な発言をしたことや殺害されたことは、『保暦間記』などの二次史料にしか書かれておらず、真相究明は今後の課題でもある。