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【武器を取ったミャンマーの若者たち③】Z世代が乗り越えるジャングルでの試練 恐れと勇気と強固な意志と

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
約70人の部下を率いるコーラット。2児の父でかつては養殖業者だった(本人提供)

 「Z世代は、我々よりもはるかに意志強固で勇敢だ」。1988年にミャンマーで起きた民主化要求運動に参加した50代男性らがそう語るのを何度か聞いた。「良い教育も受けており、彼らこそが将来のリーダーだ」という。

 「Z世代」は、1990年代後半から2010年代前半ごろまでに生まれた若者たちだ。昨年2月のクーデター以降に起きた、民主化運動と武装闘争の中心の世代である。「デジタルネイティブ」といわれる彼らが、極限の状況を強いる環境で戦う術を学び、十分な武器がないのに国軍に打撃を与えている。なぜ、そんなことが可能なのか。現地で会った若者たちから感じたのは「独裁政権を終わらせる」という信じがたいほど強固な意志だ。

 6万人以上の若者たちがタイ国境近くに支配地域を持つ、ミャンマー最大規模の少数民族武装勢力、カレン民族同盟(KNU)に軍事訓練を受け、その大半が民主派、挙国一致政府(NUG)傘下の国民防衛隊(PDF)に入隊した。うち数万人がKNUとの編成部隊の一員として戦っているが、彼らの中には優秀な戦闘員や司令官に成長した者もいる。

 20歳のスナイパー、ニック(ニックネーム)、中隊長として60人以上の部下を率いる27歳のコーラットがそうだ。1年半前まで、今の自分の姿を予想もしなかった2人だが、激しい戦闘の経験や仲間の死を語る時の口調は、静かで飾り気がない。そのことがかえって、過酷な日々を潜りながら成長していく彼らの揺るぎない覚悟を感じさせた。

【連載第1回】「助けは来ない。だから自分たちでやる」

https://news.yahoo.co.jp/byline/funakoshimika/20220916-00314736

【連載第2回】拷問の日々を彼女が耐えた理由

https://news.yahoo.co.jp/byline/funakoshimika/20220926-00316737

行軍に向かうコーラット(本人提供)
行軍に向かうコーラット(本人提供)

■家族の反対を押し切って

 ニックは、南部エヤワディ地域の出身。表情にどこかあどけなさが残る彼は、クーデター前は、化学や物理が得意でスマホゲームにはまっている学生だった。

 2021年2月1日朝、Wi-Fiのシグナルが消えていた。何があったのかと思っていたら、テレビニュースが「国軍のミンアウンフライン総司令官が全権を掌握した」と言った。一体、どういうことか。自分達の自由や権利が国軍の支配下に置かれたということなのだと、時間が過ぎるにつれて分かってきた。

 ニックは2015年の総選挙で、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)のキャンペーンを手伝った。選挙権はなかったが、軍事政権は2007年に抗議運動をした僧侶を射殺したと知り、独裁政権は嫌だと思ったのだ。誕生したNLD政権の下で、社会がどんどん変わり、公共交通機関が目覚ましく発展するのを体験した。

 だから、軍事政権に後戻りするなんて災難でしかないと思った。「自由も権利も、未来をも失い、進む道が閉ざされて迷子になった。僕たちの世代はそんな気持ちだったんです」

 大都市で始まった民主化要求運動は瞬く間に地方にも波及し、ニックも何日もデモに参加した。

 だが、友人が国軍に射殺され、「この方法じゃだめなんだ」と思った。国軍はデモなど気にもしていないのだ。YouTubeの情報と化学の知識とを合わせて友人たちと爆弾を作った。国軍の情報員をしている男の家の前に設置したが、国軍兵士がすぐに爆弾を発見してしまった。

 KNUから軍事訓練を受けよう。仲間と話し合った。家族は反対したが、「自由と民主主義を取り戻す方法が他にないんだ」と押し切った。友人3人と共にKNUの第6旅団に辿り着いたのは、2021年6月6日だった。 

jジャッグルでPDFのために武器を製造する若者たち(現地からの入手写真)
jジャッグルでPDFのために武器を製造する若者たち(現地からの入手写真)

 ニックは子ども時代は病気がちで、体力に自信がある方ではなかった。覚悟はしていたが、軍事訓練は厳しかった。

 午前4時に起床し、2時間のランニング。朝食の後、腕立て伏せなど体力を付けるトレーニングが続く。昼食の後は4時まで銃の扱い方などを学ぶ。夕食の後は当番で夜警をした。食事は「バナナぐらいしかないと思っていた」が、村人らがコメや麺を提供してくれ、豪華ではないが十分だった。

 仲間ができることは自分にもできるはずだ。何をするにも時間がかかったが、そう自分を鼓舞した。疲れ切った時は、故郷を思った。多数の人々が抗議運動を続け、武装闘争を選んだ自分たちを応援していること。息子がいなくなったことで母が3回も国軍に拘束されそうになったこと。たくさんの人が自分の後ろにいて、支えてくれている。そう思うと、立ち上がることができた。

 一番苦手だったのは、百メートルほどの距離を前転と後転で往復する訓練である。「近くで爆弾が爆発しても、すぐに立ち上がって逃げられる」ように、目眩に慣れる訓練だと教官は説明したが、目が回りどうにもならなかった。

 それでも無理だと思っていたことができるようになり、全ての訓練が終わった時には、体力に自信が持てるようになっていた。

■できることなら撃ちたくない

 ニックが初めての戦闘に出たのは12月。2カ月の基礎訓練の後、1カ月半のスナイパー訓練を終えて試験にも合格し、2週間の休みをもらった後だった。

 「国軍が来る」と、スナイパーとして前線に行くよう命じられた時は、恐怖で体が震えた。スナイパーは仲間と離れ、1人で行動しなければならないのだ。だが、ジャングルの木陰でレミントンM700を構えると、恐怖心は消えた。最初の一発が、国軍兵士の首に命中した。

 ニックは仲間のカバーに助けられながら、5回の戦闘で4人の兵士を倒した。

 「奇妙なこともありました」。国軍の偵察兵らしい男を捕らえた時のことだ。国軍の戦闘服を着たその男の首には何箇所も注射針の跡があり、意識が朦朧としていた。何を聞いても、聞き取れない呟きを繰り返していた。基地に連れて行くと、間もなく国軍が空爆してきた。

 「体内にGPSが埋め込まれていたのではないか」。あまりのタイミングに、仲間とそんな話をしたという。意識が朦朧としていたその兵士は、3日後に我に返った様子だったが、自分がどこにいるか分からずパニックに陥っていた。国軍は、兵士を使い捨てにしていると思った。

 「できることなら人を撃ちたくないんです。でも撃たなかったら、仲間がやられてしまう」。武装闘争以外の方法で正義を実現できるのならば、それを選びたかった、と言う。「もし軍事政権が方針を変えるなら、国軍兵士を撃つ必要はないのです」。

 今、それは夢でしかない。国軍は、KNU支配地域での空爆を激化させている。北部ザガイン地域では、国軍が学校を空爆し、国連児童基金(ユニセフ)によると子ども11人が死亡した。

 「独裁政権を終わらせるまで家に帰りません」。帰宅する日は必ず来る。ニックは信じている。

■「私たちのビジネスも終わりね」

 コーラットの黒目がちな目は柔らかい。待たせてしまったことを詫びると、立ち上がり、はにかんだように挨拶を返した。27歳。ミャンマーの最大都市、ヤンゴン郊外の村の出身で、魚やエビの養殖業を営んでいた。

 彼は今、カレン民族同盟(KNU)と民主派「挙国一致政府」(NUG)傘下の国民防衛隊(PDF)で編成する「コブラ大隊」の准将で、70人近いPDFの部下を率いる中隊長なのだ。 

 元々、政治にも武力にも無縁だった。生まれ育ったヤンゴン管区の村には電気も電話もなく、道路が整備されていないために、村外の世界と繋がりもなかった。

 2010年に当時の軍事政権が「民政移管」を発表した時、コーラットは高校生。電気や電話、インターネットが来て、暮らしが変わり始めた。国民民主連盟(NLD)政権の時代にもたらされた暮らしの変化は、人をも変えた。道路が舗装されて外部との行き来が容易になって村人の視野が広がり、起業する人も出てきた。村内に高校もできた。コーラットはNLDが勝利した年に結婚し、息子2人が生まれた。養殖業も順調に拡大し、平凡だが幸せな日々だった。

 「私たちのビジネスも終わりね」。2021年2月1日、国軍が全権を掌握したと発表した時、妻はそうつぶやいた。繁栄に向けて社会が歩いていたはずなのに、なぜクーデターなのか。

 インターネットと電話は間もなく復活したが、拘束された指導者たちは解放されなかった。抗議デモが、ヤンゴンで始まっていた。

 「行きましょう」。子どもたちの未来のためにも、コーラットと妻は何かしなければいられなかった。村人たちを集めヤンゴンに向かい、デモに参加した。

 2021年2月22日、全国で数百万人がデモに参加した風景は、市民に勝利を確信させた。「市民が支持しない者たちが、国を治められるはずがない。村でも嫌われ者は村長になれない。あの時はそう思った」とコーラットは言う。

■誰にも言わずに村を出る

 権力を脅かす者は誰であろうと、国軍には許されざる存在だった。武力弾圧が間もなく始まった。

 「発砲音は今じゃ、日常になってしまいましたけれどね」。コーラットは、銃声の中を必死で走った当時のことを話しながら、笑う。

 政治に詳しい友人が「武力闘争しかない」と言った時は、迷った。人を殺す道具に触れたこともないし、家族に兵士になった者はいない。だが、犠牲者は増えていく。気持ちが固まった。

 2021年4月17日朝、誰にも言わずに村を出て夕方、タイ国境近くのカイン州パアンに着いた。妻に電話し「軍事訓練を受ける」と告げた。妻は彼の気持ちを理解していて、反対しなかった。安全を確かめながらいくつかの町を迂回し、KNUの第7旅団に着いたのは6日後だった。 

■恐怖で震えた

 独裁政権を排除するためには、できることを全てやる。コーラットの決意は固かったから、厳しい軍事訓練も辛くはなかった。第7旅団で1カ月半の基礎訓練を受けた後、第6旅団で特殊部隊の訓練を受けた。

 12月15日、日本政府が職業訓練センターを設置した町、レイケイコーを国軍が襲撃した。離脱した国軍兵士や民主派活動家らが多数滞在していることが知られていて、彼らの拘束が国軍の狙いだったとみられている。インターネットメディア「イラワジ」によると、国軍は元国会議員2人を含む40人をこの時に拘束した。

 襲撃に対し、カレン民族同盟(KNU)と国民防衛隊(PDF)の編成部隊が反撃した。2日に渡ったこの戦いが、コーラットの初めての戦場となった。

 コーラットはPDFの小部隊長を任され、4人の部下と待ち伏せ攻撃の位置に着いた。響き渡る砲弾や銃声。恐怖で体が震えた。

 国軍兵士の隊列が、拘束した3人の活動家を「人間の盾」にして、コーラットの部隊が潜む場所に近づいてきた。3人は、兵士に挟まれて列の前方を歩かされている。コーラットの部隊からわずか3メートルの距離だ。

 列の後方には兵士しかいない。最後尾が近づいた時に、攻撃命令が出た。構えていたカラシニコフの引き金を5人は一斉に引いたが、3人の銃は数発撃っただけで動かなくなった。PDFには十分に機能する銃が不足しているのだ。

 コーラットが敵に浴びせた銃弾は、国軍士官に命中した。死亡した士官を放置して国軍兵士が退却している間に、塹壕で持っていた銃に装填して部下に渡し、自分は国軍兵士が放棄した銃を取りに行った。81ミリと100ミリの迫撃砲が次々と周囲に着弾する。「死ななかったのは、応援が到着したから」。午後7時ごろから始まったこの交戦は30分で止んだ。

 翌朝、戦闘が再開した。国軍側は20人ほどの死者が出たところで、空軍機が飛来し、空爆が始まった。土地を熟知しているKNUとPDFは、橋の下や岩の間など避難場所に走り込んだが、負傷した国軍兵士は放置され、爆撃で死亡したという。

■「弾丸がありません」

 夜のジャングルで国軍に出くわしたこともある。部隊を連れて防衛線にいたところ、向こうから平服の男たちがやってくるのが見えた。防衛線を越えて侵入して来る。

 「誰だ?」

 近づいて声を掛けると、男が質問した。

 「君たちはどこの大隊に所属しているのか?」

 まずい。国軍兵士だ。こんな質問をする者はKNU地域の住民にもいない。目を凝らすと、60人ほどの男たちが後ろに控えているのが見えた。

 「走れ!」

 部下に退却するよう合図を送った途端、国軍の銃撃が始まった。暗闇を走るコーラットは左ももに被弾し倒れ込んだ。地面を這って塹壕に滑り込み、流血する傷に

包帯を巻いた。弾は貫通していたが、痛みはあまり感じなかった。「部下を守らなければ、という思いの方が強かったから」

 国軍兵士たちを挟む形で部下を二手に分けて一晩を明かし、朝に攻撃を再開した。コーラットは4人の狙撃手を有効に使い、国軍に打撃を与えたという。

 コーラットは他の戦闘でも複数の司令官らを倒した。的確な状況判断と、部下を守り抜く意志。元々、彼に備わっていた能力なのだろうか。戦闘の度に上司や部下の信頼を集め、コーラットは2022年4月、国民防衛隊(PDF)の中隊長に昇進し、70人近い部下を率いることになった。

 Z世代が中心のPDFは、士気が非常に高い。だが、武器が十分にない。戦闘の最中に部下が「弾丸が足りません」と訴えてくることもある。

 「最もやるせない時です」とコーラットは言う。銃を何人かで共有し、自分たちで製造もする。国軍から奪うことも、市民からの寄付金で買ったりすることもあるが、それでも足りない。コーラットの家族は、3丁の銃を寄付した。タイの闇市で購入する武器は値段が通常の3倍に跳ね上がり、M4ライフルは15万バーツ(約58万円)だという。

前線でのコーラット(本人の提供写真)
前線でのコーラット(本人の提供写真)

■記録しておかなければ

 ジャングルで恐ろしいものの一つは、マラリアである。コーラットも3回、感染した。治療薬は前線では常に足りず、時には薬が到着するのに2週間かかることもある。マラリアで死亡したPDF隊員もいる。死はどんな形で訪れるか分からないのだ。そのことを若者たちはジャングルで実感する。

 だからだろうか、「記録しておかなければいけませんから」と、誰もが戦闘や訓練中の写真や動画をスマホに保存している。

 コーラットも多数の写真を見せてくれた。連続した銃撃音が響く戦闘中の動画。頭部を撃たれ死亡した20歳の部下の写真。全てが人生の特別な人々であり瞬間なのだ。

 迷彩服姿のコーラットの写真もある。AK自動小銃を片手で抱え、数えきれないシェルホルダーを迷彩服から下げた精悍な横顔。グレネードランチャーと400発の弾丸を前に準備をする写真。この装備で、彼は行軍し、走り回って指示を出し、部下を守るのだ。終始、静かなトーンで話す目の前の彼とは、まるで別人である。クーデター前に、この姿を想像した者はいないだろう。

 自分でも驚かないか。そんな問いに、コーラットは「いいえ」と答える。「独裁政権を倒すまで戦うと決意したのですから」

■後に続く者がいるから

 「彼はとても不運でした。」

 コーラットが引き裂かれた足の写真を示す。24歳の部下は、国軍の砲弾の破片が足に命中し、続けて別の砲弾の破片が再び足を直撃したのだ。コーラットは這って彼の元に辿り着いたが、また別の砲弾が近くに着弾した。

 「着弾時のものすごい振動は、心臓に悪影響を及ぼすんです」。地面に横たわっていた部下の心臓には、振動が決定打だったようだ。コーラットは部下を背負い、安全な地まで運んだが命は救えなかった。

 部下が苦しんでいないかどうかを、コーラットはいつも気に掛けている。戦闘が終わり、部下たちが全員無事なのを確認して、ひと息つく。今はそれが最も幸せを感じる時間なのだ。

 だが「死んだ部下を哀れだとは思いません」とも言う。コーラットの口調に力みはない。「彼らが安らかに眠れるよう、僕たちが戦い続けて独裁政権を倒すしかないのです。僕も戦闘で死ぬかもしれない。でも後に続く者が戦い続ける。そう信じています」

 コーラットの幼い息子2人と妻も3月、密かにKNU支配地域に来た。彼が複数の司令官らを射殺し、ソーシャルメディアでも知られるようになったことで、国軍が妻や息子を監視し始めたからだった。妻も軍事訓練を受け、物資調達など後方支援をしている。

 「10年後、僕は幸せに家族と暮らし、自分の家を持ち、順調にビジネスをやっているはずです」

 将来について尋ねると、彼は相変わらず静かなトーンで答えた。

 「この革命を達成し、その後の復興の日々を生き残っていれば、ですが」。彼はその頃、37歳のはずだ。

(了)

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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