【武器を取ったミャンマーの若者たち②】拷問の日々を彼女が耐えた理由「若い世代が戦わなければ未来失う」
27日に行われる安倍晋三氏の国葬に、日本政府が「招待」したミャンマー軍事政権は、抵抗勢力が活発な地域で空爆や放火、虐殺など激しい弾圧を続けている。今月19日には、北西部ザガイン地域で国軍が学校を空爆し子ども11人が死亡、15人が行方不明となった。「招待」が軍政承認につながるのではと、ミャンマー市民や国際社会から懸念や怒りの声が上がったのも無理はない。
モーサットエインは、22歳。ザガイン地域近くに位置する古都、マンダレーの出身だ。少数民族武装勢力であるカレン民族同盟(KNU)と民主派「挙国一致政府」(NUG)傘下の国民防衛隊(PDF)で編成する「コブラ縦隊」で、地雷や爆発物を仕掛ける班に所属している。
マンダレーは、民主活動家のテーザーサン医師がいち早く抗議の声を上げ、「国軍が未来を奪った」と憤っていた若者たちを行動へと導いたことでも知られる。彼女もそんな若者たちの一人で、当時は大学生だった。
モーサットエインは終始、淡々と話したが、軍尋問センターで拘束された日々の経験は、通訳をしてくれていた医師が「ちょっと僕には訳せない」と時折、中断するほど過酷だった。彼女は、1年半前までは普通の学生だったのだ。拷問を生き抜き、残酷な記憶を抱えたままなお、国軍に対峙しようとする彼女に私は驚嘆し、耳を傾け続けた。
モーサットエインの隣では3歳年上の男性JKが、静かに耳を傾けていた。2人は今年6月にジャングルで結婚したばかりで、コブラ縦隊では同じ班に属し、心身共に支え合っていることがうかがえた。
「自分たちがやらなければ、誰がやるのか。助けをただ待っているわけにはいかないんです」。JKは、若者たちを匿った僧侶や妊婦を、兵士が容赦なく殺害するのを目の当たりにし、武装闘争を決意した。
「革命を達成できたら、2人で普通の生活をしたい」。モーサットエインはつぶやくように言った。
(連載第1回)
https://news.yahoo.co.jp/byline/funakoshimika/20220916-00314736
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■「戦わなければ未来を失う」
未来と、将来の夢を返して。国軍がクーデターを起こした時、そんな思いでした。
私は幼い頃に父を亡くしましたが、精米業を営む母の下で、兄と共に不自由なく育ちました。これからどうしたらいいだろうか。家族で話しました。母は、タンシュエ(1992年から2011年まで軍事政権のトップだった独裁者)と国軍が大嫌いでした。
「しばらく静かにしていたら、全てが元通りになる」という噂が流れ、私たちは期待と疑いを持って成り行きを見守っていました。しかし2021年2月4日、民主派指導者のテーザーサン医師が、大学前で抗議の声を上げたのです。「若い世代が戦わなければ、未来の全てを失ってしまう」。医師の言葉に、私たちは触発されました。治安当局に一時、拘束された医師が6日に釈放されると、私と友人を含む約30人が彼のもとに集まり、抗議活動を始めたのです。
マンダレーではその後、大学や職種ごとにさまざまな抗議グループができ、テーザーサン医師は運動のやり方を指導するために走り回るようになりました。当初は医師についていくだけだった私たちのグループも、デモを自分たちでやっていくことになったのです。
全国で抗議デモが行われた2月22日、マンダレーでは百万人が声を上げました。しかし私たちは、国軍や警察はやがて弾圧を始めるだろうと、覚悟もしていたのです。
予想通りに国軍と警察はゴム弾と催涙ガスを使い始めました。いざという時に逃げるため、自宅の台所で砂糖やベーキングパウダーを使って発煙弾を作り、着火用のライター、それにガスマスクやフェイスシールドも準備して連日、デモに出かけました。上の世代は、そんな私たちに休む場所や食事を提供してくれていました。
■軍尋問センターに連行
3月3日午前のことです。私たちは街中の交差点付近に数千人が集まりました。「解散しろ!」。バリケードの向こう側から怒鳴り声が聞こえ、ゴム弾と催涙ガスが放たれました。そこで、私のグループを含む百人ほどを残し、あとは一旦、退却したのです。
銃声が響き、バリケード近くにいた19歳のチェーシンが倒れました。彼女とは7年生からの友人でしたが、違う大学に通っていたのでグループは別でした。彼女のグループはメンバーが23人で、チェーシンは唯一の女子。目立っていたから狙われたに違いありません。今の私には分かるのですが、響いたのは狙撃銃の発砲音ではありませんでした。
思わず、彼女に走り寄ろうとしました。その時、2台の兵員輸送トラックが私たちを挟み討ちするように突進して来たのです。車は女子2人をはね飛ばして止まり、兵士たちが走り出て、逃げる者や倒れた者を次々と捕まえました。私は弾みで近くの家の表玄関の鉄格子に体ごとぶち当たって地面に倒れ、6人の兵士に囲まれてしまったのです。
乗せられた兵員輸送トラックの床に、私と同じグループで女友達のプー、男友達のニッキ(共にニックネーム)、ほかに4人が座らせられました。4人は、一般刑務所のオーボーで降ろされましたが、私たち3人は「軍尋問センター行きだ」と言い渡されました。私はバッグに30個の発煙弾とライターを持っていて、プーもニッキも同じでした。軍尋問センターは悪名高き場所です。死んだも同然だ、と思いました。
■首にヒモ
「尋問は明日からだ」。受付で自分と家族の名前、住所を記録された後、そう告げられ、3人一緒に監房に入れられました。15平方メートルほどの房には、男女20人ほどが座っていて、大半は若者です。2時間ほどすると、私たち3人は大きな部屋に連行され、尋問はこの日から始まったのです。
部屋には20脚ほどの鉄製の椅子が並べられていましたが、尋問は私たちだけでした。背もたれが高い鉄製の椅子に座らせられ、目隠しと鉄の足枷、両手は頭より高い位置でナイロン紐で固定されました。
「心配するな。拷問はしない。テーザーサン医師がどこにいるのか教えろ」
尋問官は、3人同時に答えろ、と要求しました。答えの違いをみるためです。最後に会ったのはいつか。どこで発煙弾を作ったのか。同じ質問を何度も繰り返すのです。
何時間もたって、私たちは解放されました。房に戻る前に通った保安デスクの時計は午後9時を指していました。飲まず食わずで5時間も尋問されていたのです。
房の中では全員が体を横たえるスペースはありません。私たち3人は交代で横になり、どうにか眠りました。
尋問センターでは、朝には丸パン1個と水が、昼にはお粥、時にはお米とカレーのようなものが配られます。夜はまた丸パン1個と水だけ。トイレは、房の前にいる看守に合図し、手錠をされてから尋問室近くのトイレに連れて行かれます。
翌日の尋問は昼食後の午後1時に始まりました。この日の椅子は鉄製ではなく、肘掛けに両手を固定され、足枷をされた上に、天井から吊り下げたナイロン紐が首の周りにかけられました。
「テーザーサン医師に最後に会ったのはいつか」
「発煙弾はどこで、どうやって作ったのか」
前日と同じ質問が繰り返されます。私とニッキは、うまく嘘をつきましたが、プーは怯えていて、口籠もっていました。回答に不満を感じる度に尋問官は、私たちの後ろに立つ3人の兵士に紐を引っ張らせて、首を締め上げました。
「お前の顔が気に入らない。どうでもいい、というような顔つきだ」
尋問官は、私の顔を何発か平手打ちさせましたが、ニッキは激しく殴られて歯が折れてしまいました。
「どうせ私は死ぬんだ」。そう思っていた私は、どんな質問にも本当のことを言いませんでした。
「お前たちの行為は(国軍や政府に対する妨害などの意図を禁じた)刑法第505ーA条に相当する。お前たちは国家の敵だ」
発煙弾が、武器の不法所持やテロリズムに相当するというのです。
3日目に、プーだけが尋問に連れて行かれ、2、3時間後に房に戻ってきました。
性的な嫌がらせをされたか、と私は聞きました。「いいえ」と彼女は否定し、おずおずと言いました。
「多分、私たちはテーザーサン医師がどこにいるのか、話すことを考えた方がいいんじゃないかしら」
尋問官から私たちを説得するように脅されたに違いありません。「私たちはどうせ死ぬのよ」とだけ答えました。
1日8時間の尋問が1週間ほど続きました。午前から始まることも、午後から始まることもあり、数時間ごとに尋問チームが交代するのです。同じ質問が何度も繰り返されました。拘束から一週間が過ぎると、尋問官は外科用ナイフを脅しに使い始めました。両腕に薄く切り傷を付けるのです。それほどの痛みはありませんでしたが、翌日は、熱したギザギザのナイフで左前腕と足に切り傷を付けた後、「女の体に傷跡が残るのは困るだろう」と、アルコールをかけられたのです。燃えるように痛くて、涙がこぼれてしまいました。
■看守がメッセージを仲介
しかし、私たちは外の世界と断絶されている訳ではありませんでした。看守の中には、表立って歯向かわないけれども、軍事政権を快く思っていない人たちもいたのです。彼らは外部からのメッセージの伝達や、他の房にいる人たちとの間の連絡役をしてくれました。
「必ず解放させるから待っていて」という母。挙国一致政府(NUG)の外交担当、ササ医師の名で「頑張れ」と書かれたメッセージの紙は、房のみんなで回し読みしました。「今晩8時、みんなで革命歌を歌え」という伝令も来ました。革命歌「カバマチェブー(世界が終わるまで許さない)」(アメリカのロックバンド「カンザス」の「Dust in the wind」を基にした歌)は、1988年の民主化運動で歌われました。
この日は、尋問センターに革命歌が響きました。翌日、歌った者は全員が兵士に殴打されましたが。私たち3人は、窓がない懲罰房に監禁されました。2メートル四方にも満たないその部屋にはすでに1人が入れられていたので、4人で1週間を過ごしたのです。トイレは部屋の隅で済ませるしかなく、ネズミもいて、食事として投げ入れられるパンが床に落ちるともう食べられないほど、不潔でした。私たちはシャツを広げてパンをキャッチする方法を思いつき、食べ物を口にできるようになりました。
死にたい。生きていたい。心身共に弱っているプーを励ます私の中にも、両方の気持ちがありました。
■「お前たちにも起きること」
懲罰房から戻されるとまた、尋問の日々が始まりました。
「解放されるためには、二つの過程を経なければならない」と尋問官は言います。
「真実」を述べること。そして、(軍事政権トップの)ミンアウンフライン総司令官のスピーチを聞いて、「抗議運動に2度と参加しません」という文書にサインすること。「それをしなければ、釈放はない」
沈黙する私たちに尋問官は苛立っていました。数週間が過ぎたある日のことです。
尋問室に、30歳くらいの男性が連れて来られました。兵士が男性の両脇と頭を押さえ、手術着の男が3本の取っ手が付いた器具を持ち近づきました。私は咄嗟に、プーに「見ないで」と小さく言いました。
手術着の男は、器具を男性の片方の目に入れ2度ひねると、彼の前の器に目玉が落ちたのです。男性の絶叫が響きました。
「元に戻して欲しかったら、それを自分で拾え」
手術着の男が冷静に命じます。叫び続ける男性は両脇を抱えられ、部屋から出されました。プーは嘔吐していました。
「お前たちにも、あんなことが起きるんだ」
尋問官はそう言い、プーを医務室に連れて行くよう指示しました。
後から聞いたところでは、目をくり抜かれた男性は、少数民族武装勢力の支配地域に行ったものの軍事訓練に参加せず、町へ引き返す途中で国軍に捕まったとのことでした。
■「いつか必ず反撃する」
拘束から3カ月半が過ぎた6月16日のことです。広い部屋に、ずらり並んだ椅子の中央あたりに、プーを挟んで左手に私が、右手にニッキが座らされました。部屋には20人ほどの兵士がいました。
「尋問チームが替わることになった。我々のようにはいかないからな」。尋問官が言い渡しました。
近くで、男たちの話し声が聞こえます。
「男を殺したら、女が話すんじゃないか」「女を1人やったら、他の奴が話すんじゃないか」
新たな尋問官という男性がナイフをちらつかせながら近づき、一人一人に聞くのです。
「お前たちのうち1人を殺したら、話すか?」
それからニッキを立たせて兵士に何度も殴らせました。
「お前たちを喋らせるには、方法が一つしかないようだ」
尋問官は、兵士にプーを何度も殴らせ、5分ほどすると、部屋に私たちと同じ年頃の男性が入ってきました。オーボー刑務所で拘束されていたプーのボーイフレンドです。彼は椅子に座らせられ、頭の上で両手を交差して縛られました。
そして、彼の前で兵士がプーをレイプしたのです。6人が次々に彼女をレイプする様子を私たちは強制的に見せられました。30分以上も続いたように感じました。気を失い床に転がったままの彼女を残して、私たちは尋問室から出されました。
プーはどうなるのか。房に戻された私とニッキが、言葉少なに鉄格子の近くに座っていると、ボーイフレンドが歩いて行くのが見えました。兵士に両脇から抱えられ、うつむいたまま、なんとか歩いていました。彼が私の視界から消えた後、銃声が響き、大きな声が聞こえました。
私はその瞬間を目撃してはいませんが、彼は保安デスクの職員の銃を奪い、自らを撃ったそうです。
彼のお兄さんは、ゲリラ活動をしていました。国軍は母親に「息子は病気で死んだ。遺体を返して欲しければ、兄が取りに来い」と言い渡したとのことです。マンダレーでは、この事件はすぐに市民の間に広まりました。
プーが私たちの房に戻ることはありませんでした。あれきり、彼女を見ておらず、生死も分かりません。家族にも安否は知らされていないのです。
6月18日、私は、オーボー刑務所内にある法廷で「2度と抗議活動に参加しない」という書類に署名をさせられた後、突然解放されました。母が4千ドル相当の賄賂を渡したからでした。母と兄が刑務所の外で待っていました。
「さあ、あなたが一番好きな料理をつくりましょう」
母の最初の言葉です。母は、魚と卵を使った料理をこしらえてくれました。
いつか必ず、解放区(少数民族武装勢力の支配地)に行って軍事訓練を受けて反撃する。彼らに法的処罰を受けさせる。私が正気を保てていたのは、この思いと、看守が仲介してくれる支援のメッセージのお陰でした。もう2、3カ月、拘束が長引いていれば、私はどうなっていたか分かりません。
■戦いの道へ
解放後、1カ月間は静かに暮らしましたが、その後はじっとしてはいられませんでした。ニッキも釈放されたと聞きました。私は1人で(抵抗運動が活発な)北西部ザガイン管区などを3カ月ほどまわった後、東部に行き、民主カレン仏教徒軍(DKBA)のキャンプに身を寄せました。
「私は安全な場所にいる。若者たちを支援し続けて」。それだけを母に告げました。私がいなくなったことで、国軍は兄を2度も尋問した上に、母の精米工場に放火したのです。それでも母は、私を応援し続けてくれています。
私はDKBAで1カ月半にわたって軍事訓練を受けました。7、8キロの砂を詰めたザックを担ぎ、山や谷を走る苦しい訓練も、教官に励まされながらやり通しました。でもDKBAのキャンプは今年1月14日、国軍から激しく攻撃されたのです。私は川を渡って小高い場所に逃げ、そこから同僚7人が川を歩かされて後ろから射殺される場面を目撃しました。
■夢は生きて家に帰ること
胃炎に苦しんでいた私は1月27日、治療のためにタイ側の国境の町メソトに辿り着きました。「隠れ家」で休息していた時に、JKと知り合ったのです。 彼はすでにカレン民族同盟(KNU)のコブラ縦隊の爆発物設置班に所属していました。
「一緒にコブラに入らないか」。彼の言葉はプロポーズと同じでした。KNUで2人で活動するためには、結婚しなければなりません。「愛している」と彼が言った時、私も同じ気持ちでしたから、決断は難しくありませんでした。4月5日にコブラ縦隊に参加し、6月22日、彼の上官の中尉たちに証人になってもらって、ジャングルで結婚式を挙げました。白い糸で2人の右手を結ぶ、カレン民族伝統の式でした。
爆発物の設置は、時には敵の建物にも忍び込むのでとても危険な任務です。この1年半を乗り越え、私はどんなことでもできるのだと、自信が持てるようになりました。
時間がある時には、タイの携帯電話の電波が拾える小高い場所に登り、住む場所を転々としている母に連絡します。
生きて家に帰ること。それが今の私の夢なのです。
アウンサンスーチーさんが、武装闘争をどう思うかですか?市民と若者を信じ、その決断を信頼してくれているはずです。
(了)