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上杉謙信の軍師として知られる宇佐美定行は、本当に実在した人物なのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信。(提供:アフロ)

 一昔前、武田信玄に仕えていた山本勘介の実在が確認され、ちょっとした話題になった。ライバルの上杉謙信には、軍師として宇佐美定行が仕えていたといわれているが、それが事実なのか考えてみよう。

 若き頃の上杉謙信は、琵琶島城主の宇佐美定行から兵法を学んだといわれている。定行は軍学者として知られ、のちに謙信のもとで軍師を務めた。その根拠は、後世に成った『越後軍記』なので、もう少し詳しく経緯を確認することにしよう。

 もともと謙信は春日山の林泉寺で修行をしていたが、のちに栃尾の常安寺に移った。その頃、謙信は定行との面会を希望し、鬼小島弥太郎を使者として琵琶島に派遣した。定行は、使者からの要請を快諾した。謙信は定行に会うと、兵法を教えてほしいと懇願したのである。

 その一方で、謙信は修行を続けるとしたうえで、世間からの評判には耳を貸さないと述べた。この言葉を聞いた定行は、大変心強く思い、謙信に兵法の講義をすることになったのである。

 謙信は幼い頃から林泉寺の天室禅師のもとで、経書を学んでいた。そのようなこともあり、謙信は『孫子』、『呉子』の講義を受けても、非常に呑み込みが早かったといわれている。

 謙信は大変正義感が強く、「義の人」だったといわれている。「弱きを助け、強きをくじく」というのが、謙信のモットーだった。謙信の強い正義感は、定行の講義を通して養われ、生涯を通して確固たる信念になったといわれている。

 ところで、根拠になった『越後軍記』は、米沢藩に仕えていた軍学者の宇佐美定祐が書いたものである。定祐は、越後流軍学の開祖といわれる人物だった。現在、謙信と定行の話はまったくの作り話であり、定行なる人物が実在しなかったことが指摘されている。

 定祐の父は定満、祖父は房忠で、ともに琵琶島城主だったのは事実である。父も祖父も普通の武将であって、軍師でも軍学者でもなかった。かつては、謙信の父の長尾為景と戦ったこともあった。なぜ、定祐は『越後軍記』で作り話をする必要があったのか。

 当時、甲州流軍学の小幡景憲が名を馳せており、定祐は景憲に対抗すべく、越後流軍学の開祖と自称した。それゆえ、定祐は『越後軍記』を創作し、世に広めたのである。なお、定祐による『宇佐美古文書』、『宇佐美系図』も非常に疑わしい史料である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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