七転び八起き、「ベースボールの果て」でプレーを続ける「しくじり」侍のストーリー
ニューメキシコ州・アラモゴード。ここを訪ねたのは、昨年の夏のことである。
この地名を聞いたことがある人はよほどのアメリカ通だろう。国道沿いにモーテルが並ぶだけのダウンタウンからハイウェイを時速70マイル(112キロ)で10分ほど飛ばしたところにある白砂の大砂丘が唯一の見どころという、人口3万のこの小さな町にも、プロ野球チームがあるところにアメリカという国が感じられる。アメリカ人にとっての「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」である野球は、言い換えれば血液のようなもので、体の隅々に毛細血管がのびるかのように、どんな小さな町にもプロ野球が存在する。
名所の大砂丘にちなんで、ホワイトサンズ・パップフィッシュ(メダカ)と名付けられたこの町のチームは、独立リーグ最底辺とも言われるペコスリーグに所属するプロ球団だ。2階建てのメインタワーを中心に4面のフィールドが扇形に広がる施設の1面を借り切って行う試合の入場料はたったの6ドル。試合を行うフィールドだけは、パイプを組み合わせた簡易スタンドがしつらえられている。そんな場所でも、プロ野球が催されるのがアメリカなのだ。この日の観客はなんとたったの50人、草野球のような風景の中、フィールドで動き回るユニフォーム姿の若者に拍手と叱咤激励の声が飛ぶ。
「プロ野球の果て」に身を投じる日本の若者
そんな「ベースボールの果て」と言っていいような場所にも日本人選手の姿があった。
中村光雄、と言ってもその名にピンとくるのは、よほどのアマチュア野球マニアしかいないだろう。彼は、大阪の強豪、東海大仰星高校で甲子園を目指したが叶わず、全日本選手権出場20回を誇る奈良産業大学(現奈良学園大学)に進学し、再び日本一を目指すことになった。大学では1年春からベンチ入りして将来を嘱望された。
しかし、多くの独立リーガー同様、彼もここで「しくじって」しまう。秋のシーズン限りで退部、そして大学も中退してしまったのだ。彼は、専門学校に進み、そこで野球を続けることにした。ここで4年間、主力投手としてマウンドに立ち、プロ入りとはいかなかったものの、卒業後も、この年に野球部を発足させた社会人野球の新鋭、ジェイプロジェクトに入社、ここでプレーを続けることになった。
多くの選手が、学卒後、プレー続行を諦めざるをえないことを考えると、一度しくじった選手としては満点に近いコースだったと言えるだろう。しかも、チームは彼の入団後の2012年、創部4年目にして社会人野球最高の舞台である都市対抗に出場したのだ。本戦ではこの第83回大会を制したJX-ENEOSといきなりぶつかり1対2で惜敗、中村の出番は巡って来なかったが、高校、大学と手が届きそうで届かなかった全国大会の舞台で「日本一」を自分の射程にとらえることができた。
しかし、ここで中村はまたもやしくじってしまう。
このシーズンのオフ、酒の席でのことだった。隣席のグループに狼藉を働いた同僚を止めるべく下ろした拳があだとなった。警察沙汰の一歩手前でことを収めるためにやむなくしたことではあったのだが、会社は、主力であった同僚の言い分だけに耳を傾け、「加害者」の中村に謹慎を言い渡した。2大会連続の都市対抗出場を目指すチームメイトを尻目に、「社業専念」を余儀なくされた中村は悶々とした3か月を過ごす。謹慎が明けてチームに再合流したときには、チームの陣容はすでに決まっており、中村の座る椅子はもはやなかった。結局、チームは2年連続の都市対抗出場はならず、9月の日本選手権予選にも敗退。シーズンが終わると、中村は会社に呼び出された。
「野球はもう終わりだから。あとは人事部と話してくれ」
これを事実上の解雇通知と受け取った彼は辞表を提出した。飲食業が本業の会社が経営する居酒屋の店長に収まる気はなかった。
本場で出会った「ベースボール」
彼は自費で渡米し、現地の「トライアウトリーグ」に参加した。トライアウトリーグとは、MLBからドラフトされなかった者、あるいはマイナーリーグをリリースされた者が捲土重来を期して、スカウトの前でプレーするリーグのことである。但し、ここからいきなりMLB球団とマイナー契約を結べるものはごくわずか、実際は、そのさらに下の独立リーグのスカウティングの場になっている。
ここで中村は、日本にはなかったアメリカ野球の価値観の虜になってしまう。
「僕は別に日本の野球の上下関係が嫌いなわけではなかったんですけどね。別に体罰も絶対アカンとも思わないです。情熱もって鉄拳振るっているのと、ただ腹立つから殴ってるのとは、殴られた自分らがわかりますから。でも、アメリカに来て一番感じたのは、『自分で考える』ってことですね。例えば、帽子のつばを後ろにして被っていたりすると、日本でもアメリカでもやっぱり誰かしら注意してくるんですよ。でも、その時の理由が真逆なんです。社会人時代のコーチだったら、『監督がダメって言ってるから』って言ってくるんです。でも、トライアウトリーグで同僚から言われたのは、『プロだろ?』。この一言です。僕が、『ケン・グリフィーだってやってるじゃん』って反論すると、『なら、プロフェッショナルとしてあのレベルまで行けよ』って。ちゃんと自分の考えを言ってくれるんです。あとは、やっぱり日本は短所を削る、アメリカは長所を伸ばす、その違いは感じましたね」
いったん帰国し、春が終わる頃、再び渡米、ウィスコンシン州のアマチュアリーグに飛び込んだ。ステイ先だけはチームが確保してくれたが、あとはなけなしの貯金を切り崩しながらの生活だった。3階建ての一軒家での15人の共同生活だったが、若さゆえそれも気にはならなかった。あこがれのアメリカで夢中でプレーした成果は、リーグの最優秀投手となって現れた。
オフは、オーストラリアのクラブチームにプレーの場を求めた。アメリカと違い、週末だけのゲームだったが、ビザの関係で週1回語学学校に行けばアルバイトが可能で、好景気のこの国では、社会人時代以上の稼ぎがあった。しかし、そんなことはどうでも良かった。野球に夢中になれる環境がなによりも中村にはうれしかった。
昨年の夏も彼は32歳になるシーズンを「プロ野球選手」として送っていた。アメリカとオーストラリアでプレーを続ける中、渡米2年目からは、プロリーグと契約することができたのだ。契約先は、独立リーグの中でも最低ランクに位置するペコスリーグであったが、野球に専念できるだけで十分だと彼は笑う。
「プロって言っても、僕の場合、支給されるのは、月に50ドルのミールマネーだけですけど(笑)。ホームステイ先をあてがってもらって、食事もありますから。お金はかからないんですよ」
プレー先を求めて、世界中をさまよい歩く競技人生
オーストラリアでの初めてのシーズン後、帰国して父の経営する会社でアルバイトをした。そこで得た金で再度渡米、トライアウトを繰り返してプレー先を探すという現役続行だった。
ペコスリーグのシーズンは短い。2か月ちょっとという短いシーズンは、7月中には終わってしまう。彼も他のチームメイトと同じく、シーズン後は次のプレー先を探して、金の続くまでアメリカ大陸をさまようつもりだ、と言った。
帰国しても、風来坊生活を続ける息子に父は決して甘い顔をみせることはない。仕事が中村に回ってくるのは、従業員だけでまかないきれない時だけだ。それは、「そろそろ上がれ(引退しろ)」というメッセージなのかもしれないが、中村にはまだそのメッセージは届かないようだ。
「いつまで?もう体、ぼろぼろなんですけどね。利き腕でない左手以外は痛いところばっかりです。その左手が故障したら、引退ですかね。もう歳ですけど、やるからにはより上のレベルを目指しますよ。そういう意味では、今歩んでいる道の先にメジャーだってありますよ(笑)」
嘘とも本当ともつかない台詞を吐きながら、中村はブルペンに向かって行った。
アメリカには、無数のプロ野球チームがある。車で10分も走れば町の端から端に達してしまうような小さな町にも、「おらが町のチーム」があり、少ないながらも白球を懸命に追いかける選手に拍手を送るファンがいる。そんな田舎町の球場を見かけたら、覗いて欲しい。異国でたったひとり、マウンドに登る横手投げの日本人を姿を見かけることができるかもしれないから。
(写真は全て筆者撮影)