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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は徳川家康を討つ予定だったのか。『本城惣右衛門覚書』に書かれたこと

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は織田信長でなく、徳川家康を討とうとしたという説があるが、正しいのか。(提供:アフロ)

 今回も大河ドラマ「麒麟がくる」の補足をしよう。一説によると、明智光秀は本能寺で織田信長でなく、徳川家康を討つ予定だったという。この説は、正しいといえるのであろうか。検証することにしよう。

■本城惣右衛門とは

 明智軍に従軍した将兵たちは、本当に明智光秀が織田信長を討伐しようとした計画を知らなかったのであろうか。明智軍に従った本城惣右衛門(?~1640以降没)が晩年に書き残した『本城惣右衛門覚書』には、この間の経緯について詳しく述べられている。

 本城惣右衛門は丹波出身の土豪で、もともとは丹波赤井氏に仕えていた。しかし、天正7年(1579)に赤井氏が滅亡したので、明智光秀の配下に加わった。天正10年(1582)に明智光秀が討たれたると、以後は羽柴(豊臣)秀吉に従ったのである。

 『本城惣右衛門覚書』によると、惣右衛門は秀吉の配下になって以降、天正13年(1585)の紀州征伐、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦、慶長20年(1615)の大坂の陣などに出陣した。生没年は不詳である。

■『本城惣右衛門覚書』とは

 まず、『本城惣右衛門覚書』について述べておこう。

 『本城惣右衛門覚書』は本城惣右衛門の覚書で、寛永17年(1640)に成立した。本能寺の変前後の状況をリアルに再現していることで、注目を浴びている史料である。

 全文は『ビブリア』57号に紹介されているが、本能寺の変の部分については、『真説 本能寺の変』(集英社)にも翻刻されている。近年になって、白峰旬著『現代語訳 本城惣右衛門覚書』(歴史と文化の研究所)が刊行された。

 『本城惣右衛門覚書』は変後約60年余を経て書かれたので、著者の記憶違いや何らかの意図がなかったのかなど、検証すべき点は多い。

 なお、惣右衛門が本能寺を急襲したとき、門が開いて広間は静かだったこと、捕らえた女性から信長が白い着物を着ていたことを聞いたことも書かれており、かなり細かい情報を載せている。

■徳川家康を討つ

 『本城惣右衛門覚書』が注目される理由は、一兵卒の当時の気持ちが率直に綴られていることだろう。本能寺の変の当日、亀山城を出発した行軍中の惣右衛門は、老の坂(京都府亀岡市・京都市西京区)から山崎(京都府大山崎町)方面に行くと思っていたが、行き先が京都であると知らされ、当時上洛していた徳川家康を襲撃すると思ったという。

 惣右衛門は信長を討つと、まったく思っていなかった。それどころか惣右衛門は、本能寺のことも知らないうえに、単に斎藤利三の息子のあとをついて行っただけであると証言をしている。この史料を根拠にして、光秀が本当に討つ予定だったのは信長ではなく、家康だったという説がある。

 しかし、近年では文脈をつぶさに検討し、惣右衛門は家康を討つと思ったのではなく、家康の援軍に行くと思ったと解するのが正しいとも指摘されている。

 いずれにしても、『本城惣右衛門覚書』の記述を全面的に信用するわけにはいかないだろう。それは惣右衛門自身が思っていたことにすぎず、明智軍のほかの将兵がすべてそう思っていたのか断言できないからでもある。

■覚書という史料の性格

 一般的に、覚書は子孫のために自身の経歴や軍功を書き残したもので、晩年に至って執筆することが多い。一種の回想録である。したがって、記憶の誤りや単純な間違い、あるいは自らの軍功を顕示するための誇張などが含まれていることもある。

 最初、惣右衛門は備中高松城(岡山市北区)の秀吉のもとに出陣すると聞かされていたので、急に進路変更になったことを疑問に思ったのだろう。

 その際、まさか主君の信長を討つとは考えがおよばず、家康を討つのではないかと思ったのだろうか。なぜ家康なのかは、根拠が不詳である。ただ少なくとも、信長が家康を敵視する理由が見つからない。

■信長と家康の関係

 近年の研究によると、もともと信長は将軍・足利義昭の要請に基づき、家康に出陣を依頼していた。つまり、信長は家康と領土協定を結ぶだけの対等な関係にあったという。

 しかし、天正3年(1573)の長篠の戦い以降、家康は信長の配下となり、軍事動員されるようになった。同時に家康は、信長が領土拡大戦争を行ううえで、貴重な戦力だった。信長が家康を討つ理由などなく、かえってデメリットのほうが大きいのである。

 いずれにしても、光秀に従った多くの兵卒は惣右衛門と同じく、いったい何のために京都に向かうのかわからなかったかもしれない。

 ましてや、信長が本能寺に滞在していることなどは、上層部の家臣しか知らなかったことだろう。ただ言えることは、最終的に信長を討つという光秀の命令には、従わざるを得なかったということである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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