【駅の旅】明治の鉄橋と昔話のお地蔵様に会える駅/山形鉄道フラワー長井線荒砥駅(山形県)
雪解けと共に北に帰る白鳥たち
晩秋から初春にかけて山形鉄道の車窓からは、しばしば、田園地帯に白鳥の群れを見ることができる。のんびりと羽を休め、あるいは、仲間と戯れる姿に癒やされる。日本で越冬し、シベリアに帰る彼らがこのあたりで羽根を休めるのである。雪解けと共に彼らは徐々に北に帰って行く。
終点の手前で明治の鉄橋が健在
雪を抱いた雄大な朝日連峰の山々を左手に眺めながら、列車は右に大きくカーブし最上川橋梁を渡る。この鉄橋は1889(明治22)年に東海道本線の木曽川に架けられていたものを移設し、1923(大正12)年の長井線の開業と同時に架橋されたガーター橋で、現役鉄橋としては同じ山形県にあるJR左沢線の最上川橋梁と並んで、日本最古の鉄橋である。大きさは幹線の鉄橋と比べると小ぶりで、明治時代は非電化であったから東海道本線でも使うことができたのである。
山形鉄道は、国鉄長井線を継承し、JR発足直後の1988(昭和63)年に第三セクター鉄道として開業した。沿線には、開業当初から使われていたと思われる古い木造駅舎が今も多数存在し、昭和の雰囲気を感じることができる。
駅舎内は素朴な資料館
ある朝、終着の荒砥駅に着いた。この駅は2003(平成15)年に公民館を併設した大きなコンクリートの建物に建て替えられており、往年の木造駅舎は跡形もない。古い時代を懐かしむ旅人にとっては、趣のある木造駅舎の方が嬉しいが、毎日、この駅から列車に乗っている地元の人々にとっては、やはり駅は新しく立派な建物である方がいいに決まっている。
その駅舎の窓口でひとりの老人の姿があった。
「きょうは駅員さんがいねえので、切符は売れねえんだ」
てっきり委託駅員かと思ったのだが、切符を改札口で回収するわけでもなく、駅の売店の店番をしている人のようだ。
駅舎内は、公民館のほかに郷土資料館になっており、無料で見学できる。訪れたのが3月ということもあり、館内には所狭しと小さな雛人形が並んでいた。この地方のお雛様は、北前船で紅花を運んだ帰り船で、上方から運ばれてきたものだ。お膳の上に乗せられており「膳びな」と呼ばれている。膳の上のお椀の中に入っている五人囃子は、まるで一寸法師のような愛らしさだ。
紅花や養蚕業で栄えたこの土地の旧家から集められた人形たちは、遠い過去の栄華を思い起こさせてくれるようだ。養蚕が最も栄えたのは、長井線が開通した大正末期のことであり、鉄道の開通は、それまで馬車や最上川の水運に頼っていたこの地域の人々にとって、大きな恩恵を与えたに違いない。
洪水から村を守った大きなお地蔵様
駅から歩いて10分ほどの正念寺に行くと、丈六地蔵尊という5メートルもある大きなお地蔵様に出会うことができる。これには昔話がある。近くを流れる貝生川(かいしょうがわ)が度々氾濫し、妻子を洪水で失った男が7年かけて堤防を築いた。そして、次に洪水が来たときに必死で決壊しそうな堤防を守るうち、その男は大きな石になり、それが一丈六尺もあるお地蔵様になり丈六地蔵と呼ばれるようになったという。そのお地蔵様は歩けない子供の足を自らの足と交換に治したという言い伝えから、子供の足の健康や交通安全の守り神と言われているという。なんとも素朴なお話である。
白鷹山関は郷土の誇り
帰りに近くにある「舟越」というおそば屋さんの暖簾をくぐり、鶏南蛮で暖まる。壁には地元白鷹町出身の大相撲十両力士で、この三月場所で十両優勝した白鷹山(はくようざん)関の手形が飾られていた。
「そりゃ応援していますよ。早く幕内に上がってほしいです」
来場所は新入幕を狙える地位まで番付を上げた。小さな町から出た関取は、やはり地元の期待を背負うヒーローなのである。
【テツドラー田中の「駅の旅」⑧/山形鉄道/フラワー長井線荒砥駅/山形県西置賜郡白鷹町大字荒砥】