“科学の楽園”にとって女性博士は何だったのか?
“小保方さん問題”は、このあとどうなっていくのだろうか?
昨日の会見への評価が分かれている。まぁ、“評価”という言葉を使うこと自体、自分で使いながらも、なんとなく違和感を抱いてしまうのだが、どこを、どう、何を期待したのか? によっても変わるだろうし、その人自身がどういう経験をしてきたかによっても変わるのだと思う。
私が感じたこと。ううむ、一言でいうのは難しい。ただ、率直な感想を言うと「ああ、この方は普通の家庭で、普通にちゃんと育てられてきたのだなぁ」という印象だった。
そして、「誰も信じてくれなかった。あと一日、もう一日がんばろう」と1月の記者会見で語った言葉は、本心だったのだと思うし、その気持ちは今も続いているのだろうなぁと思った。
が、これ以上、昨日の会見について書くのは辞めておく。これまでにも何本かここでも、“小保方さん問題”として取り上げているので、興味のある方はそちらをご覧いただきたい。
いずれにしても、あの一月の記者会見から今日に至るまで、科学的なことが世俗的になり、いろんな意味でごった煮状態になっていることに、なんともいえない気持ち悪さを感じている方も多いのではないだろうか。
そこで、前回「小保方さんの”捏造”は、誰の仕業だったのか?」に書ききれなかった、研究世界における女性活用の“闇”について、お話しようと思う。
時代は1990年代には遡る。
1990年代といえば、日本でも女性が社会で働くことがフツウとなり、ガラスの天井なるものが問題視されるようになった時代でもある。
研究者の世界も例外ではなかった。
女性研究者の“ガラスの天井”なるものを、統計的な分析から明らかにした論文が、欧米にセンセーションを巻き起こしたのだ。
論文は、1997年にスウェーデンの医学者、WennerasとWoldによって書かれたもので、掲載されたジャーナルは、皮肉にも今回も話題になった『ネイチャー』だった(C.Wenneras & A.Wold; "Nepotismand Sexism in Peer-Review", Nature, 1997.)。
WennerasとWoldは、「スウェーデン医学研究評議会(Swedish Medical Research Council)による研究費補助金の審査過程で、男性は「男」というだけで高く評価され、女性は「女」というだけで低く評価されていた」ことを、統計的な分析から明らかにしたのである。
さらに、審査員となんらかのコネがあることも、審査の評価に影響していた。
性差別と縁故主義……。学問に、“王道”が存在していたのだ。
Wennerasらは、コネを持たない女性が科学業績だけで “ガラスの天井”を破るには、最高ランクの雑誌に男性より20本ほど多くの論文を発表する必要があるとした。それは不可能に近いことを、意味している。
なんせ、程度の差はあれ、査読付きのジャーナルに投稿して掲載されるまでには、最低でも3カ月、1年近くかかることもある。男性より20本も多くの論文を発表するなんて、気が遠くなる。よほどの体力と頭脳と根性の持ち主じゃない限り、……いや、それでも無理。うん、やはり不可能だ。
ネイチャーという世界的なジャーナルで、研究費補助金獲得の機会の不公平さが暴かれた結果、スウェーデン医学研究評議会はその翌年から、女性の審査員を増やし、審査過程の透明性を高めた。特に、審査過程の透明性には明確な基準を示し、力を入れたそうだ。
男であれ女であれ、しっかりと仕事をすればちゃんと評価される――。この論文は、女性というだけで「機会」が失われないための取り組みが広がるきっかけの1つになったのである。
ちなみに、平成15年に男女共同参画推進本部が、「2020年までに指導的地位に女性が占める割合が、少なくとも30%程度になるよう期待する」という目標を設定した当時、科学技術の分野における女性研究者の比率は11.2%だった。その後はさまざまな取り組みの結果、平成24年には14.0%まで連続して上昇している。
が、その割合は分野によって大きく異なる。最も多いのが人文・社会科学で28%。もっとも低いのは工学で、わずか5%。今回スポットがあたった理学は、工学に告ぐワースト2位で、12.6%となっている(総務省「平成24年科学技術研究調査」)。
前回のコラムでも書いた通り、研究者の世界でも女性の積極的活用が勧められている。「女性研究者 助成金」くらいのキーワードでググってみれば、さまざまな大学、財団、一般企業が、いかに女性研究者の育成に積極的であるかが、お分かりになると思う。
1月の会見が「女子力」に力点が置かれたのは、少なくとも理化学研究所が、「科学だけでなく、男女共同参画の問題でも最先端の施策を実現し、女性研究者がやる気を出せる、日本のモデル研究所となるよう努力している」との方針をもっていることは大きかったといっても過言ではない。
小保方さんが30歳という若さで、ユニットリーダーになった背景にはこんな方針も少なからず関係したいたに違いない。 割烹着だの、ピンクの研究室だの、ムーミンだの、と“女らしさ”をアピールし、回されるカメラの後ろに何人もの女性研究員が写っていたことにも、なんらかの思惑があったのではないか。
「科学者達の自由な楽園」と呼ばれていた理化学研究所が創設されたのは1917年、大正6年である。
当時の理研は、男女差別とは無縁な組織だった。
日本で最初の女性理学博士である保井コノ先生、「紅花」の研究で有名な黒田チカ先生、既婚女性としては初めて博士となった加藤セチ先生、さらには初の女性農学博士である辻村みちよ先生も理研の研究者だった。
女性たち科学の道を切り開いた先生たちは、あの1月の記者会見をどう見たのだろう? そして、昨日の会見にどんなことを言ったのだろう。
先生たちの意見が聞きたい…。そんな思いに駆られた昨日の会見だった。