偏差値37だった「企業労働法弁護士」が働く人へ伝えたいこと(特別インタビュー1/2)
労働紛争には、解雇や残業代、ハラスメント、労災などさまざまな事件があります。それが裁判に発展した場合、企業側と労働者側それぞれに弁護士が立って、争うことになります。
私は、「企業人事と共に歩む羅針盤でありたい」という理念を掲げ、企業側の弁護士として活動していますが、そんな私だからこそ気づいた、「働く人へ伝えたいこと」について、いつもの対談とは異なり、インタビューに私が答えるという形でお届けする特別回としたいと思います。
偏差値37だった「企業労働法弁護士」が働く人へ伝えたいこと
中学校時代は偏差値37の劣等生だった彼が、大学に合格するまでにどんな紆余曲折があったのでしょうか。また、経済学部でありながら、法律を独学し、弁護士を目指したきっかけは何だったのでしょうか?
労働紛争には、不当解雇や未払残業代、パワハラ、過労死などさまざまな事件があります。それが裁判に発展した場合、企業側と労働者側それぞれに弁護士が立って、争うことになります。倉重公太朗は、「企業人事と共に歩む羅針盤でありたい」という理念を掲げ、活動しています。そんな企業労働法弁護士だからこそ気づいた、「働く人へ伝えたいこと」を倉重公太朗が語ります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
<ポイント>
・偏差値37から企業労働法弁護士となるキャリア
・外資系弁護士事務所を半年で辞めた後に出会った「天職」
・なぜ「企業側」の弁護士だったのか?
・15年いた事務所を離れて独立した理由
・終身雇用の時代は終わった
―――――――――――――――――――――――――――――――――
――読者のみなさんは、倉重さんがどんな学生で、なぜ弁護士になったのかを知らない方がほとんどです。まず、生い立ちから伺っていきたいと思います。学生時代はどのような学生でしたか?
倉重:ありがとうございます。弁護士なので、「頭がいいですね」などと言われるのですけれども、中学受験をしたときには、偏差値37でした。
――偏差値37ですか?
倉重:当然志望校にも行けなかったですし、学力は男子校150人中148番ぐらいでした。ゲームばかりしていて、全然勉強をしていませんでした。中学のときにはあまり学校にも馴染めず、不登校になった時期もあるので、将来今のような仕事をするとは、とても思えなかった状態です。
――今の倉重さんを見ると、不登校というのは全然想像がつかないのですが。
倉重:今はすごく元気で明るいと言われますが、当時は、集団の中での自分の存在意義や、将来何がしたいのかも分からない状態でした。エネルギーをどういうふうに発散したらいいのかも全く分からなくて、ゲームをするしかできない日々だったのです。高校生でいい家庭教師の先生に会ったり、塾に行き始めていい友達に会ったりして、そこからぐっと勉強をするようになり、一気に偏差値が上がっていったという感じです。
――高校になって「勉強をしよう」と思ったきっかけは何ですか?
倉重:オーストラリアに1カ月の短期留学に行き、「英語があまりにもできないので、やばいな」と焦って、勉強をし始めました。家庭教師の先生が女性ということもあって、やる気になったのです。男子高校生なんてそんなもんです。
でも、相変わらず学校では浮いていたので、高校のときにも少し不登校の時期がありました。そのときに「ただ学校に行かないだけでは、やはり損だよな」と思ったのです。特に行きたくもなかったのですが、「このままイジめられて、勉強もできなかったら、自分の価値はないよな」と思いました。それまでゲームに注いでいたエネルギーが、いつの間にか勉強のほうに変わった感じです。
――高校で学力が上がって、合格した大学はどちらですか?
倉重:慶應義塾大学の経済学部です。法学部ではありません。最初は会計士になろうと思っていたんですよ。
――それはご両親の影響ですか。
倉重:私の下の名前は公太朗というのですが、親が税理士というのもあり「公太朗は公認会計士の公だぞ」と言われて育ってきたので、「自分は会計士になるのだ」と思っていました。「大学に入ったら、会計士の勉強をしてみよう」と思って、TACという資格の学校に行ってみたのです。ところが、あまりに簿記がつまらなくて、1週間で電卓を放り投げてやめてしまいました。親のしていることが、自分にまったく向いていないことに気づき、路頭に迷ったのです。
■経済学部から弁護士を目指した理由
――なぜ弁護士という選択肢を見つけたのですか?
倉重:大学で応援団に入り、大学1年生のときには、そちらの活動に集中していました。渋谷の神宮球場で大学の応援が終わった後に、渋谷のブックファーストという本屋さんに行って、自己啓発のコーナーなどをグルグル回っていたのです。30冊ぐらい自己啓発の本を読む中で、たまたま司法試験の本を見つけました。本の後ろに先生のメールアドレスが書いてあったので、「人生に悩んでいるのですが、法律を勉強したら面白いですか?」とメールで聞いたら、きちんと返事をくれたのです。それから法律の勉強をするのにハマりまして、「司法試験を受けてみるかな」と思うようになりました。
――大学生のときに、「自分の人生、このままでいいのだろうか」と考えるのは、凄いことだと思うのですよ。学生時代から、自分の人生に真剣だったのですね。
倉重:思い返してみると、確かにそうですね。
――学生時代からそう気付ける人は多くはないのでは、と思います。
倉重:応援団を1年間した後は司法試験の勉強にシフトしたので、慶應ボーイだったのにほぼ遊ばない大学時代を過ごしてしまいました。本当に「彼女と楽しくやっているやつらは全員いなくなれ」と思いながら勉強をしていたのです。
――弁護士に受かったのはいつですか。
倉重:3回受験して、卒業した年に受かりました。それまでは「周りの同級生はみんな就職して働き始めているのに、自分だけ一切お金も稼がずに実家通いで勉強をして、これで大丈夫なのか?」と思っていました。無事に3回で終わったので良かったです。
――弁護士になって最初はどこかに就職したのでしょうか?
倉重:とある外資系の法律事務所に就職しました。いきなり月収百万円以上で、いい待遇でした。1年目で個室も与えられ、秘書も付けられ、契約書のチェックをするというような仕事でした。ほとんど誰とも話さないで、パソコンと向き合っている感じでして、これもあまりに向いていなかったのですよね。他の人には「弁護士になって月収も高額なんだからいいでしょう」と言われたのですが、「全然楽しくないな」と思って半年で辞めました。
――学生時代から「自分の人生とは」と真剣に考えて生きてきて、自分の道だ!と思った弁護士になって、就職したわけですから、いくら高額の報酬でも自分の道と思えないなら続けられないですよね。
■「よく食べる枠」で採用される
倉重:その後、労働法が専門の安西法律事務所というところに、「よく食べる人が辞めたから」という理由で、採用されました。
――よく食べる枠ですね。
倉重:ボス弁護士の安西先生と一緒に会食に行って、「君はよく食べるから合格」というような感じでした。そこで労働法という今もメインにしている法律分野に出会ったのです。労働法は、当時の司法試験の試験科目にもなかったので、完全に一から勉強をしました。先輩方が読んでいる本を全部読んだり、先輩に頼んで問題を出してもらったりしました。クイズを毎週出してもらって、できるだけ早くキャッチアップすることは、苦もなくできたのです。自分に向いている仕事だと、勉強が遊んでいる感じというか、楽しくてどんどんやってしまう感じでした。
――どの辺が面白かったのですか。
倉重:いろいろな事件の顔があって面白いのですよ。解雇の事件や未払残業代、パワハラやセクハラなど、もちろん悲しい事件もありますけれども、一件一件、事件の様相も違います。労働者側も企業側もさまざまな思いがあって、その思いを貫くには、きちんと過去の判例や法律、実務を知らないと、いい弁護ができないわけです。
きちんとお客さまの役に立つためには、相当に勉強をしないといけないなと思いました。最初は「1つの分野だけでも先輩に勝てるようにしよう」と思って、特定の分野の判例を読みまくるというところから始めたのです。
――労働法の訴訟の中でも、さまざまな分野があるわけですね。
倉重:そうですね。解雇の分野の判例や本もたくさん読みました。「ここまでやれば先輩に追いつける」という感覚が掴めたら、他にも広げていくという感じです。
――一つずつ自信を付けていったのですね。
倉重:やはり「自分に向いていて、楽しいから続けられた」という感じです。
■予防法務に目覚める
倉重:日本の場合、労働法に関する問題は、「労働者側」と「企業側」に分かれてしまっています。そのうち企業側というのが、自分の中ですごくフィットしました。
――なぜ企業側なのですか。
倉重:たまたま所属していた事務所が企業側だったということが大きいです。ただ、私は大学時代に、経済学部でミクロ経済学・マクロ経済学を学びましたが、そことも共通点があったのです。要するに労働者を弁護する人というのは、ミクロ的な目線でその人を助けて幸せにします。それもすごく大事な仕事です。一方で企業側の弁護士は、会社全体の幸福値や満足度を上げるお手伝いをします。経済学部出身の私としては、日本の世の中全体のために働くほうがしっくりきたのですね。
――つながりますね。
倉重:経済学部出身の弁護士にはそういう意味があるのです。あとは、大学を卒業した2003年は、ちょうど就職氷河期といわれる時代で、大卒の就職内定率が史上一番低い年でした。大学を卒業して、派遣やフリーターなどで最初のキャリアをスタートさせた人がいるのです。そうなると、やはりその後が厳しくなります。果たして、その人たちが悪いのでしょうか?別にバブル期の学生と比べて勉強をしていなかったわけでもありません。たまたま社会情勢が悪かっただけです。「これは社会システムがおかしいのではないだろうか」と思いました。
――企業労働法を専門にされて、何年目になりますか。
倉重:17年目です。
――今は独立して開業されていらっしゃいますけれども、その前の弁護士事務所には何年いらっしゃいましたか。
倉重:15年近くいましたね。
――その後に開業しているということですね。
倉重:そうですね。やはり合わないものは、とことん合わないし、嫌だったら、すぐにやめてしまいます。昔から団体行動がすごく苦手だったのですが、好きなことがあると集中する性格です。1つの組織に15年もいたのは初めてだったので、「向いていることは、ある程度続けられるな」と思いました。
――15年もいて、どのような思いで独立したのですか?
倉重:弁護士の在り方は、人それぞれ変わっていてもいいのではないかと思ったのです。一般的な弁護士は、裁判や交渉をして紛争を解決します。労働法でいったら、「残業代をいくら請求されていくら払う」などの紛争対応が一般的です。私も過労死や解雇の事件、組合対応もしましたが、「そもそも紛争にさせないほうが大事だな」と気づきました。労働に関する不幸は何をしても生まれるときはありますが、「発生する確率や数を減らすために、もっと企業の中に入り込みたい」と思うようになったのです。医学でも、外科的な手術と予防的なものがあります。それと同じように「予防法務」に力を入れたくなったのです。それには、自分の名前で独立するしかないと思ったのがきっかけですかね。
――これがまさにホームページで書いている、「ニュータイプの企業側弁護士」ということなのですね。
倉重:そうですね。「チャットで気軽に質問してね」「雑談ベースでもいいですよ」「アイデア出しの会議にも一緒に行きますよ」というように企業の人事の打ち合わせにも一緒に入るスタイルの弁護士は、あまりいなかったのではないかなと思います。
――一般的な感覚でいうと、弁護士の先生に相談するのはハードルが高いですよね。
倉重:まず資料を整えて、「先生いつ空いていますか」と予約をして、「この質問1ですけれども」と答えるスタイルが多かったのです。私は「『あれは何かな?』というレベルで気軽に聞いてください」というスタイルです。
――私が倉重さんは他の弁護士のイメージと違うと感じるというのは、フランクさです。今日のインタビューもそうですけれども、ざっくばらんに話してくれます。
倉重:確かにそうですね。「先生」と言われる機会は多いですが、あまり好きではありません。上下関係があるわけでもないですし、ただ役割が違うだけですから、むしろ「うまく使ってくれよ」ということですね。あと、人事の人が会社内で意見を言うときに、その人個人の意見というより、弁護士の意見と言ったほうが通りやすいので、「そういうふうに使ってくださいよ」と言っていますね。
■働く人へのメッセージ
――仕事をしていく上で「働く皆さんに知ってもらいたいな」ということがあると思うのですよ。教えてもらっても良いですか。
倉重:特にこれから就職する人や若い世代の方に知ってもらいたいのは、「終身雇用の時代は終わった」ということです。昭和の働き方は、経済が拡大して、人口も増えて、過去にやってきたことをなぞって、拡大再生産していったら、うまくいくからできていたのですよ。
今は明らかに人口減少の時期で高齢化しています。企業だって、どういう方向に行ったら生きていけるのかが分からないという、すごく不確実な時代なわけです。学生さんにも「どこかの会社に入ったら安泰ではないですよ」とよく言っています。これは本当に実感値として感じるところです。大手企業だって、今は40代や50代で早期退職をしていますから。そこにずっといられる保証もありません。仮に60歳までいられたとしても、その間窓際的な面白くない仕事を我慢してやりますか?それとも自分でやりたい分野の仕事のスキルをどんどん積んでいくのでしょうか。その選択によって、その人の人生の彩りが違ってくると思うのですよね。
――「できたら安定した大企業に就職したい」と、私も学生さんと話をしているとそう考えている人が多い印象を受けます。ただ、その感覚を変えるのは、なかなか難しいと思うのですが。
倉重:学生さんと話していると、「親世代の感覚も変えないと難しいな」と思います。やはり「いい大学に行って、いい企業に入りなさいよ」と言われて、学生さんは今のコロナの中でも真面目に勉強をしています。いざいい大学に行って、いい企業に入ったとしても、その中で左遷になるかもしれません。あるいは「早く退職しろ」と勧奨されるリストに入ってしまうかもしれないですよね。あるいはその企業自体が買収されて人数調整をされるかもしれないし、将来に何の保証もないわけです。
――今なら特に、コロナで休業や倒産のリスクもありますよね。
倉重:コロナやウクライナ危機のことなんて、誰も予想できませんでした。それと同じように、10年後に何が起きるのかは、絶対に分かりません。ましてや22歳の人が60代になる40年後はどうなっているのか、正確に予想できるわけがありません。企業があるかどうかも分からないのだから、雇用があるのかも不明です。そのときに雇用があるのだとしたら、そこに残れるような努力を自分でもしなければいけません。自分のキャリアを企業に任せて、「いつでも言うことを聞きます」ではなくて、「自分でこういう分野をやっていくのだ」と最初に考えて、スキルを積んでいく意識を持つことが大事ですね。
――では、「自分のキャリア」について、どのように考えていけばいいのでしょうか。
倉重:まずは、「何が向いているか、向いていないか」と、「自分は何者か」というのを知ることですね。「これをやりたい」というのがある人は、それで良いです。でも、そのような人は多分少ないと思うので、まず「何が嫌か」を考えましょう。「俺は数字に向いていない」「細かい作業が向いていない」というものは除外して、消去法でまず考えていきます。残った中で、会社でまだマシな仕事は何かを消去法で選択して、その部署を希望してみる。あるいは「それ、やっておきましょうか」と提案したり、「プロジェクトに混ぜてもらえませんか」とお願いしたりする形で関わってみるということです。自分もそうでしたが、やってみないと何が向いているかが分かりません。
――そうですよね。それこそ倉重さんも、簿記の勉強をやってみて、公認会計士の仕事に向いていないのが分かったのですから。
倉重:そうです。外資系の弁護士も、「カッコイイ」「楽しそう」と思って入ったのですが、向いていなかったわけなので、やってみないと分からないと思います。「自分のキャリアは、こういうふうになるのだろうな」と思い描いても、その通りになる人は、ほとんどいないのです。
――私もそうでした。
倉重:やっていく中で見いだしていくものなのです。「プロ野球選手になります」と言って夢をかなえた人などは別ですよ。そうでない限り、いろいろやっていく中で見つけていくものだと思うのですよね。よく「キャリアは轍のようなものだ」と言われます。馬車がいろいろと道を歩いていく中で、振り返ってみたら一本の線がつながっているではないですか。「今ここにいることは、昔は考えもしなかった」という所に、だいたいいるものなのですよ。考えても仕方ありませんが、その時々に最善を尽くさないと、いい道には行けないですね。いい企業に入ったら終わりではありません。
――自分の「力」を付けるという感じですか。
倉重:そうですね、自分が「○○会社の○○です」というのではなく、「○○できる人です」というふうになれるかどうかだし、「どうありたいか」ということと関わってきます。これもまた働き方改革で、より一層二極化しているのですよ。
今、働き方改革を政府が指導しています。ここで行われるのが、残業など労働時間を規制することです。もちろん過労死など健康被害は防がなければいけません。一方で、人はある程度の仕事量をこなして成長します。企業はいろいろな研修を受けさせて、自分の向いている分野を探させることを強制できませんので、自分でやってもらわなくてはいけないのです。もちろんいろいろなメニューを用意して「見ておいてね」「研修を受けたい人は受けてね」ということはできます。でも、強制してしまうと、労働時間を超えるからできません。そうすると何が起こるかというと、「やりたい人はやる、やらない人はやらない」という二極化が進むのです。この差が10年後にはすごいことになっています。「研修は義務ではないから」と、定時で帰って趣味に打ち込むのも、その人の人生だから構いません。しかし、本当に10年後、20年後もそれでいいと思っているのかは疑問です。誰もそのようなことを教えてくれませんので、結構残酷だなと思っています。
――10年後、20年後に、会社がなくなっていたら、その人はどうするのでしょうか。
倉重:誰も責任を取ってくれません。とある外資系の教育方針でいいなと思ったのですが、人事は新入社員にこんな教育をします。「われわれは、餌の取り方を教えます。餌を持ってくるのではありません。餌を与えてしまうと、与える人がいなくなったら死んでしまうからです。そうではなくて、どうやったらビジネスに役立つスキルを獲得できるか、仕事で人の役に立てるかを教えるというのが本当の教育です」と言っていました。
――教育の本質ですね。
倉重:そういう意識は、企業の人事も持つべきだし、働く人も「きちんとやっていこう」と思わないといけません。
――自分自身がきちんと餌の取り方を身に付けるということが、これからの「働く」ということなのですね。
倉重:できれば、好きで、得意で、稼げることだと最高ですね。好きで向いている分野だと、勉強をしても苦になりません。本を読む、先輩に聞く、過去の仕事を見ることを自発的にしていきます。家でカレーを煮込みながら、新しいアイデアを考えたりするわけです。そういうことは、無理やりにやらされていたら、絶対にできません。それで10年たったら、相当に差がつきますよね。
――確かに「仕事は仕事」というふうにしてしまうと、それこそ成長の余地を狭めてしまうということですね。
倉重:もちろんそういう人生を選択するのはいいのです。定時で帰って、かつ、ダブルインカムで暮らしていくのは、その人なりの豊かな暮らしだから全然いいのです。それをきちんと意識して自分で選択してるのかというのが大事なのですよ。「いつの間にか選択肢がなくなっていた」というのが怖いのです。そういうことを誰も教えてくれません。「いい大学に行け」「いい企業に入れ」と言われて、企業に入社したら、「あれをやれ、これをやれ」と言われるだけです。「将来のキャリアをどうしろ」というのは誰も教えてくれないではないですか。
――だから、倉重さんは、伝えたいわけですね。
倉重:一人でも多くの人に「時代は変わっている。意識しないとやばい」と気づいてもらいたいです。
(つづく)
倉重公太朗(くらしげ こうたろう)
東京都中野区出身。慶應義塾大学経済学部卒。熊本地方裁判所にて司法修習。
2005年~2006年 オリック東京法律事務所
2006年~2018年10月 安西法律事務所
2018年10月~現在 KKM法律事務所 代表弁護士
第一東京弁護士会 労働法制委員会 外国労働法部会副部会長
日本人材マネジメント協会(JSHRM)理事、日本CSR普及協会理事,経営法曹会議/
日本労働法学会・日本労務学会会員
経営者側労働法を多く取り扱い、労働審判・仮処分・労働訴訟の係争案件対応、団体交渉(組合・労働委員会対応)、労災対応(行政・被災者対応)を得意分野とする。企業内セミナー、経営者向けセミナー、人事労務担当者・社会保険労務士向けセミナーを多数開催。
〔主な著書・論文等〕
著作は25冊を超えるが、近著は
『HRテクノロジーで人事が変わる』(労務行政 編集代表)
『改訂版 企業労働法実務入門 ~はじめて人事担当者になったら読む本~』(日本リーダーズ協会 著者代表)
『日本版 同一労働同一賃金の理論と企業対応のすべて』(労働開発研究会 著者代表)
【受賞】
日本経済新聞社「第15回企業法務・弁護士調査 労務部門(総合)」第6位
エコノミスト「企業の法務担当者が選ぶ「頼みたい弁護士」13選」