夢の成層圏飛行機と東京大空襲
夢の飛行機
ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まった昭和14年(1939年)頃、先進各国は「成層圏を飛行する快速機」の研究を進めていました。日本も、昭和13年5月に航続距離(11651キロメートル)と滞空時間(62時間23分)の世界記録を樹立した飛行機(航研機)を作り、世界を驚倒させた東京帝国大学航空研究所などが取り組んでいます。
雲は対流圏の現象で、その上にある成層圏には雲がありません。このため、雲による飛行障害がなく、空気が薄くて抵抗が少ないことから高速飛行が可能であるなど、様々なメリットがあることなどから成層圏を飛ぶことができる飛行機は、快適な旅行を可能にする「夢の飛行機」と言われていました。
成層圏からの戦略爆撃
成層圏を飛行中でも機内を地上付近の気圧と気温に保つことができる与圧室を持った初めて飛行機が初飛行したのは、太平洋戦争が始まった昭和17年9月のことです。
初飛行した成層圏飛行機は、ボーイング社の爆撃機「Bー29」でした。
乗員は、分厚い防寒服が必要なほど寒く、酸素マスクが必要なほど空気が薄い成層圏を、普段の服装のまま高速で飛ぶことができ、ほぼ安全で快適な状態で爆弾投下をするという、地上の悲惨さとは全く別世界での任務遂行でした。
太平洋戦争中は、気象報道管制により、天気予報と台風情報は国民に知らされなかったことなどから、一般の人には外国の情報が全く入っていないということが、よく言われます。
しかし、早い段階で国民に知らされている情報もあります。アメリカの成層圏飛行機による爆撃の可能性についての情報もその一つで、早い段階から国民に知らせ、準備が行われました。
例えば、昭和17年11月10日の読売新聞朝刊では、普通の戦闘機が迎撃できない成層圏飛行機からの爆撃があるので、成層圏飛行機を迎撃するための成層圏戦闘機を検討中という記事を載せ、アメリカの成層圏戦闘機の試作機の写真を掲載しています(図1)。
当時、どの国も、成層圏を飛行する爆撃機を迎撃できる戦闘機はないので急いで開発をという旨の記事ですが、事実は、新聞記事とは多少違います。
レパブリック社のPー47は、運用開始が1943年4月なので、新聞記事の時点では実戦配備してはいませんでした。
しかし、初飛行は1941年5月6日と、ほとんど完成し、量産中でした。
そして、戦闘機としての空戦能力が優れているだけではなく、圧倒的な馬力と兵装搭載量によって爆撃機としても使われ、短期間にP-47だけで1万6000機も作られています。
日本の戦闘機では零戦の生産が最多ですが、コツコツと積み上げ、やっと1万機でした。
圧倒的な工業力の差がありました。
日本本土空襲
B-29は、日本本土空襲のため大量生産されます(B-29は最終的に4000機生産)。
そして、連合軍は、昭和19年末からマリアナ諸島から発進させたB-29を使って、日本の各都市に対して本格的な戦略爆撃を実施しています。日本が最悪と考えていたものより、はるかに規模の大きな爆撃でした。
東京の空襲は、昭和19年11月24日に、マリアナ諸島から発進したB-29により、中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)に対して行われたのが最初の本格的な空襲です。
その後、東京は100回以上の空襲を受けますが、最大のものは、昭和20年3月10日の東京大空襲です。西高東低の冬型の気圧配置の日で、人々は強い北風の寒さの中、空襲の猛火に追われました(図4)。
東京大空襲の3月10日は陸軍記念日
3月10日の東京大空襲は、午前0時から約130機のB-29によって行われ、無差別爆撃により23万戸が焼け、10万人が亡くなっています。
アメリカ軍が3月10日を選んで攻勢をかけたのは、この日が日本の陸軍記念日だからです。
明治38年(1905年)3月10日、日露戦争最大の決戦となった奉天(現在の瀋陽)で勝利した日が陸軍記念日で、戦前の日本人は良く知っている記念日でした。
東京大空襲の2日後の3月12日に名古屋大空襲、さらに3月13日に大阪大空襲、3月17日の神戸大空襲と続きます。
そして、8月6日に広島、8月9日に長崎への原爆投下です。
このほか、200以上の都市で空襲が相次ぎ、約24万から100万人まで、色々な説が存在しますが、とんでもない数の人が亡くなっています。
B-29は、気象観測結果を平文で打ちながら空襲
太平洋戦争末期の中央気象台の天気図の原図をみると、日本軍の撤退や通信の不良などから、天気図で観測データが記入されていない範囲がどんどん広がっていますが、日本の南海上に米軍による飛行機観測データの記入が増えています。昭和20年7月29日から8月2日に大型で非常に発達した台風が沖縄本島を通過したとき(図2)、沖縄周辺に密集している米軍に対して元寇時のような神風になるのではと期待されたときもそうでした。しかし、飛行機による台風監視が行われており、台風は神風にはなりませんでした。
図3は、昭和20年8月1日の天気図の原図の一部です。飛行機による観測データには観測時刻も記入されており、この時刻をたどってゆくと、サイパン島を出発し、気象観測をしなら飛来し、西日本上空でUターンして、再び気象観測をしながらサイパン島に戻っています。
このことについて、今から30年以上前、私が気象庁予報課で予報当番に従事していたときにベテラン予報官から次のような話を聞いたことがあります。
「終戦直前のアメリカ軍は、飛行機による気象観測結果を暗号を使わずに送信していたので、この送信を傍受し、天気図に記入して利用していた」
気象観測結果には、必ずどの場所で観測したかという位置情報が入っていますので、暗号なしで送信するということは、飛行機の位置が相手に知られてもかまわないということを意味しています。この天気図は、日本付近の制空権をアメリカ軍が完全に握っているということの証明で、それを記入していた人たちの心情はいかほどだったのでしょうか。
終戦直前になると,アメリカ軍は頻繁に空襲を行うために飛来し、気象観測をしていたため,自国民を自然の猛威にさらしてまで実施している日本の気象報道管制は意味をなさなくなっています。
成層圏飛行機と言わないほど普及
私たちの海外旅行は、ほとんどが様々な利点がある成層圏飛行機で行われています。
飛行機が成層圏を飛ぶのはあたりまえで、あえて、成層圏飛行機と言わないほど身近になっているのです。
成層圏を安全で快適に、しかも速く飛ぶ成層圏飛行機は、「夢の飛行機」と呼ばれて開発がスタートし、完成は太平洋戦争中で「日本の悪夢の飛行機」、そして、現在は多くの人と貨物と希望を運んぶ「正夢の飛行機」となっています。
図2、図3の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。