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大岡弥四郎事件の計画を密告した、山田八蔵とは何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡崎城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大岡弥四郎事件がメインテーマだった。この事件を密告した山田八蔵とは、いったい何者なのか考えてみよう。

 ドラマでは「八蔵」と名乗っているが、「重英」とも称される(以下、「八蔵」で統一)。八蔵は生年不詳で、父母の名前も明らかではない。そもそも八蔵は鳥居久兵衛に仕えていた。九兵衛は、松平信康(家康の子)の家臣だった。

 いずれにしても、八蔵の生涯は史料が乏しいので、詳しいことがわからない。永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、八蔵は一揆方に与したという。その後の経過は不明であるが、のちに家康から帰参を許されたと考えられる。

 天正3年(1575)に勃発したのが大岡弥四郎事件である。大岡弥四郎事件とは、岡崎で町奉行を務めていた大岡弥四郎が中心となり、武田氏に内通しようとした事件である。一種のクーデターといえるだろう。この事件は、徳川家を震撼させた。

 八蔵は、鳥居久兵衛の家臣でもあった小谷甚左衛門の誘いを受け、弥四郎に協力した。首謀者の1人だったのである。しかし、八蔵は一転して考え直し、事件の計画を信康に密告した。これにより弥四郎ら首謀者は一網打尽となり、計画は失敗に終わったのである。

 首謀者の弥四郎は岡崎城下、浜松城下で見せしめとして引き回され、鋸引きという極刑に処せられた。妻子も連座して磔刑に処せられた。甚左衛門は、養子の九郎左衛門とともに三河から逃亡した。こうして事件は、終結したのである。

 八蔵は事件を未然に防いだ功として、加増された。そして、「訴人八蔵」と称されたという。この場合の訴人とは、悪事を通報した人という程度の意になろう。ところが、その後の八蔵の生涯は悲惨だった。

 天正16年(1588)、八蔵は渥美弥三郎と口論となり、弥三郎によって殺された。その結果、所領はすべて没収されたのである。翌年、養子の重次が弥三郎を討ち、仇討ちに成功したので、300石を給与され、山田家は復活したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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