非業の死を遂げた穴山梅雪は、徳川家康に陥れられたのか
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、神君伊賀越の場面だった。通説によると、徳川家康に同道した穴山梅雪は、途中で一揆によって殺害されたというが、家康の謀略だったという。それが事実なのか考えてみよう。
天正10年(1582)6月2日、織田信長は宿泊していた本能寺を明智光秀に襲撃され、無念にも自害して果てた。その一報を耳にした徳川家康は自害しようと考えたが、気を取り直して本国の三河国に戻ることを決意した。そして、家康は神君伊賀越により、無事に帰還を果たしたのである。
このとき、家康に同道したのが穴山梅雪である。穴山梅雪は途中で一揆(落ち武者狩り)に襲撃され、殺害されたという。襲撃された場所は、宇治田原(京都府宇治田原町)だったと伝わっている。しかし、梅雪が殺された理由は諸説ある。
諸史料によると、梅雪の着用していた服が美麗だったのが原因という。一揆(落ち武者狩り)の人々は、梅雪が着ている服を奪おうとして、殺害したというのである。当時、梅雪は堺から上洛して信長に会う予定だったので、良い服を着ていた可能性は十分にあろう。
しかし、家康も良い服を着ていただろうから、これだけでは根拠として弱い。『イエズス会日本報告集』によると、家康は十分な資金と兵力を保持していたという。一揆(落ち武者狩り)は家康一行を襲撃したが、結局、撃退されたことが判明する。
近年では、17世紀初頭に成立した新出史料により、家康が謀略を用いたという説が提起された。梅雪は道案内を付けずに家康から離れていたところ、一揆(落ち武者狩り)に討たれて落命したというのだ。たしかに、帰国後の家康は、ただちに穴山衆を配下に収めた。
今となっては、家康の謀略か否かを決定づける明確な根拠史料はない。『老人雑話』にも家康の謀略を匂わせる記事はあるが、いかんせん史料的な価値が劣る。何よりも、梅雪がなぜ家康一行から離れていたのかも不明である。
とはいえ、梅雪の死が謀略であったことは、家康が穴山衆を首尾よく配下に収めたことから遡って、当時の人々が「家康の謀略」と考えた可能性もあろう。この件に関しては、おおむね二次史料にしか書かれておらず、書いた人の意図が汲み取りにくいので、注意が必要である。