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イギリスと(北)アイルランドの関係を、共通旅行区域(CTA)の歴史に見る:英国の解体とEUを考える2

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者
03年アイルランド海軍が英海軍とのイベントで初めてベルファスト港に来た時の船上旗(写真:ロイター/アフロ)

「英国の解体と欧州連合(EU)を考える」シリーズの2回目である。

アイルランドがシェンゲン協定に入る日は来るのだろうか。

その日は、真にアイルランドが今までの歴史に終止符を打ち、英国から離れ、新しいステップを歩み始める日ではないのだろうか。

現在のイギリスとアイルランド、そして北アイルランドの関係を考えるのには、「共通旅行区域」(CTA/The Common Travel Area)の問題を知ることが重要だろう。

今回は、この歴史的背景を見ていきたいと思う。

前回の記事:シェンゲンと共通旅行区域(イギリス+アイルランド)問題。悩む観光業

アイリッシュ・タイムズへの寄稿に、とても興味深いものがあったので、翻訳してお届けしたい。主張や立場が対立しているケースでは、資料を読むのに注意が必要だと強く思うが、この寄稿はとても質が高いと感じた。

タイトルは「ブレグジットが、入国管理規則と共通旅行区域に、どのように影響を与えるか」。2019年1月に発表されたものだ。

著者は、ピアラズ・マック・エインリ氏(Piaras Mac EINRI)。アイルランド国立大学ユニバーシティ・カレッジ・コークの地理学科で、地理学およびヨーロッパ研究を教えている。

わかりにくいところは、意訳したり筆者が言葉を足したりして訳した。

ピアラズ・マック・エインリ氏。アイルランド国立大学ユニバーシティ・カレッジ・コークのサイトより。
ピアラズ・マック・エインリ氏。アイルランド国立大学ユニバーシティ・カレッジ・コークのサイトより。

ブレグジットが、入国管理規則と共通旅行区域に、どのように影響を与えるか

ーー英国がEUを離脱したら、イギリスーアイルランド間の人の動きの規制を実行できるのだろうか。

スペイン内戦の間。フランコ将軍の独裁政治に対して、反ファシズムを唱える共和国のために戦おうとする志願者たちがいました。彼らは、ヤギしか渡りそうにないと思われていたフランス国境のピレネー山脈を越えて、スペインに行きたがっていました。同情深い土地のガイドは、彼らを同地へと導いたのです。

何十年も経った後、冷戦の時代、ヨーロッパには東と西を分断する鉄のカーテンが敷かれていました。重装備されたドイツ民主共和国(共産主義東ドイツ)は、バルト海からチェコスロバキアまで伸びる1万4000キロメートルもの距離を、コンクリートの長い壁や有刺鉄線、および銃で遮って、市民が東側を去って西側に行こうとするのを妨害しました。

現代の監視システムですら、国境を越えようとする人々を完全にコントロールするのは難しい。彼らは、絶望した避難民であろうと、密輸業者や犯罪者、あるいは何らかの理由で戦っている人であろうとも、国境を越えようとする意志に満ちています。

アイルランドで天然の境界のない北アイルランドとの国境地帯に起きた、複雑で時に血まみれの歴史は、一度ならず記録されてきました。最も新しいものは、作家で地図製作者のギャレット・カー(Garrett Carr)の魅力的な本 『The Rule of the Land』があります。

カーは、国境地域を1キロごとに行き来して、現実を封印して、警察の力で取り締まることはいかに悪名高く難しいかを説明しました。その現実は、国境地域に住む人々にとっては、あまりにも長い間、見えすぎた現実でした。

2年間、ブレグジット交渉では物の移動の話をしていました。それとは対照的に、人々の動きは表面上はもっとはるかに単純な問題であるように見えます。でも、それは全体を見ていません。

たとえ物の移動を規制する方法や手段が見つかったとしても、あるいは管理の必要性をなくすことが可能であると証明されたとしても、それは人々の移動のケースには当てはまりません。このことによる影響は、十分に考慮されていません。

共通旅行区域(CTA)の起源

1921年、英国政府とアイルランド共和国暫定政府との間に、英愛条約が結ばれました(1919年からアイルランド独立戦争が始まっていた)。

でもこの条約では、国境を越えた移動を含む移住と定住の問題については、沈黙していました。デフォルトでは、新しいアイルランド自由国家は、すべての実用的な目的には、以前の(独立前と)同じやり方で機能し続けると想定されていました。

(注:英愛条約は、アイルランドに自治領の地位を大英帝国の中で与え、「アイルランド自由国」と称することなどを定めたもの。ただし、先立って1920年に既に発足していた北アイルランド議会は、そのまま存続した)。

アイルランドと英国の人々は、互いの領域において相互に移民と入植の権利を持っていました。そして、国境管理とは主に物に対してであって、人ではないことも意味していました。

2つの領域で自由に移動できる体制は、第2次世界大戦中に変化しました。アイルランドから英国への旅行は、たいていは労働目的のためでしたが、双方から許可を受けることが必須でした。

アイルランド自由国から北アイルランドへの旅行には、身分証明書が必要でした。長期滞在を予定している場合は、滞在許可証が必要でした。興味深いことに、北アイルランドの旅行者が英国に入ろうとした場合でも、管理とチェックに直面しました。

このこと自体、島内において厳しい国境を求めることが、どれほど非現実的と考えられているかの現れです。たとえ北アイルランドのユニオニスト(英国派)が、英国の他の地域の人々とは異なる立場に置かれていることを不快に思ったとしてもです。

このような怒りは、ユニオニストの議員によって、英下院で頻繁に公開討論されました。アイルランド島のどこから来ようと、旅行許可証がいるというイギリスの要請は、1947年の終わりまで無くなりませんでした。

イギリスの見解では、旅行規制は、両政府間で同様の移民政策が確立された場合にのみ完全に廃止されることになっていました。そのような政策が、1952年にダブリンの法務省とロンドンの内務省によって合意されました。

これが現在「共通旅行区域(CTA)」として知られるものの基礎を形成しました。この言葉が初めて使われたのは1953年のことです。アイルランド当局は、ロンドンに対して「この規則は完全に非公式なものである」と言って、交渉の背景を隠すためにかなりの努力をしました。

その結果、1952年協定の条項は、当時は公表されていませんでした。数十年もの間、英国とアイルランドの移民協定の中心となる契約は、ダブリン側の要請で、事実上秘密にされていたのです。

「共通旅行区域(CTA)」は、独特な取り決めです。ウェストミンスター英議会で採択されたアイルランドの法律によって、判断されうるのです。この中においては「アイルランド共和国は、英国のいかなる地域で施行されたいかなる法律にとっても、外国ではありません」。

英国の首相テレーザ・メイ氏は、ブレグジット後も同じ場所に留まると主張しました。アイルランド政府もそうです。その下で、アイルランド人とイギリス人は自由な移動の権利、働き、定住し、福祉を要求し、投票する権利さえ持っています。

それにもかかわらず、明らかなマイナス面がありました。 CTAは、ダブリンが入国管理(移民)政策に関するすべての重要事項に関して、ロンドンに従属していることを意味しています。さらに、英国が政策を変更したとき、アイルランドはそれに従いました。

時には、協力は動揺しました。特にダブリンが英国内務省の「ブラックブック」(注:犯罪者や重要被疑者のリスト)の内容に進んで従おうとしたときです。そのリストにある人物がアイルランドに入るためにビザを申請したならば、拒絶は自動的でした。

古い管理と、新しい現実

CTAは、外の世界と市民に対して、言うなれば両国が同一の顔を見せ、多かれ少なかれ同一の政策を適用しているという前提のもとに行われました。そのようなスタンスは、臭いも味も悪いが、議論の余地はあるにしても、間違いなく継続可能なものでした。アイルランドは非常に限られた移民しか持たなかったので、そのことが意味する自治の喪失は、小さいものでした。

しかし、今日のアイルランドの移民人口は17パーセントです。主に欧州連合(EU)からではありますけど。人道的移民ーー庇護希望者と難民ーーという全体の問題は、アイルランドにとって1950年代よりも、今日のほうが重要です。

例えば、もし英国が、外国人嫌いで反移民的な立場に向かってさらによろよろ前進したり、1951年の難民条約の条項を過激に拒否することさえ考えようとしたら、どうなるでしょうか。アイルランドの手も同じように縛られるのでしょうか。

アイルランドにとって、CTAは、何世代にもわたってアイルランド移民が隣国へ行くのに、整ったアクセス手段を保証してきました。隣国では、言語を共有していましたし、アイルランドの労働者に対する強い需要がある労働市場があったのです。英国の観点からは、そのような労働力はすぐに入手可能で、給与も手頃だったのです。

しばしば、英国はアイルランドの社会問題に対する安全弁でした。アイルランド人の妊娠した未婚の女性を受け入れましたし、中絶を求める人たち、貧しい人たち、あるいは単に寛容でない国家において居心地が良いと感じなかった人たちを受け入れたのでした。

2つの(国境をまたぐ)管轄区域には、密接な関係や緊張の管理において、一連の複雑さがありましたが、CTAはここでも鍵となる要素となってきました。実質的な修正なしで、紛争(the Troubles)の間の最も困難でそして過激な期間さえ、持ちこたえてきたのです。

1998年のベルファスト協定は、アイルランドの2つの地域と2つの島の間の、日々の障壁の解体に拍車をかけました。証明書類の検査やその他国境管理のすべての要請がなくなったのです。

新しい恐れと、新しい問い

ブレグジットは、EUの政策および法律に明記されている移動の自由が、英国ではもはや適用されなくなるが、CTAは効力を維持するという状況を引き起こすでしょう。

しかし、今、英国がEUを去り、アイルランドは留まるとき、両者の旅行規制におけるCTAの実行の可能性と妥当性に関して、問題が生じるでしょう。

ブレグジット後のイギリスは、アイルランド国民を除いて、EU加盟国を含むすべての第三国民の英国への移動を、制限し規制するようになると思われます。

変更は結果をもたらします。 EU外から来る移民の移動に関しては、アイルランドとイギリスの当局間の協力が強化され、2つの管轄区域を、名前は変えないだけで1つの共通の管轄にすることが望まれるかもしれません。

EU市民は、アイルランドへの移動は妨げらない権利を持っています。しかし、英国に旅行する権利は持っていません。英国は現在、国民保険、またはそのような他の検査をすれば、アイルランドからの違法移民を防ぐことができると提案しています。

しかし、そのような裏口を設けることは、港、空港、または列車での英国への入国の規制と、論理的にも実際的にも相容れないようです。このようなすべての場合において、英国は厳格な管理と、国境の強化の必要性を主張してきました。

例えば、1990年代に英国がシェンゲン圏に加わらなかったのはこのためです。「私たちの国境の管理を取り戻す」ことがブレグジットという舞台の鍵となる要素であると言っても過言ではありません。

なぜアイルランドと英国の動きが、異なるべきなのでしょうか。そして、もし国境管理がなければ、合法的にアイルランドに来て、英国の国境を越えようとすると推定される1万人のスペイン人またはルーマニア人の移住者は、どうなるでしょうか。

実際、アイルランド当局自身は、ブレグジット後の不安定な状況において、このようなフロー(流れ)に慣れているでしょうか。電子監視は、これらの問題に対処しないでしょう。

1990年代の国境管理の最初の撤廃は、いくつかの「ソフトな管理」措置を伴っていました。新しい自由を利用する資格のない人々が、不法に入れないようにするためでした。

例えばアイルランド人でもイギリス人でもない人々が、アイルランド国境を越えたのか、あるいは越えようとしていたのかを確かめるために、スコットランドと北アイルランドの間のフェリーでは定期検査が行われるようにもなりました。

ガルダ(アイルランド警察)によるバスや電車の点検もありました。時には民族的プロファイリングが使われました。ある西ベルファストの黒人男性が、辛い経験をして気づくといった具合にです。

このようなチェックは現在では変わりました。正規滞在をしている人々が、たとえ証明書類を持っていなくても、移動する権利を持っていることを見せてくれるでしょう。

より一般的には、イギリスとアイルランドの当局が、2つの島の間で、事実上共有の管理地域を運営するという恐怖が生じるに違いありません。そのことは、EUにおけるアイルランドの立場に影響を与えるかもしれません。

アイルランドの隠れた対価

英国当局にとっては、CTAが生き残ったのは、アイルランドと英国の入国管理政策が密接に連携していたからです。英国もアイルランドも「ハードな(厳格な)」国境の概念は、実行もしないし望んでもいなかったことは明らかです。

しかし、英国がEUを去った後、共同で行う管理は、庇護希望者、難民およびEU移民の国境越えの監視を含めて、今では非常に差し迫った問題になっています。たとえ慣習的な意味で、ハードな国境が戻らなかったとしても。(終)

●ピアラズ・マック・エインリ氏の寄稿を読んで

アイルランドは、日本と似ているところがあると思う。

同じ島国らしいと、共感さえ覚えてしまう。でも同じ島でも、イギリスとはかなり違う。

記事中に、過去に民族ファイリングを行っていて、黒人が排他的な特別な目で見られるという話が出てくる。

この部分は、複雑な内容をはらんでいると思われる。アイルランドにおいて「イギリス人」の定義が、当の英国と異なっていた背景は説明する必要があるかもしれない。

当時アイルランドでは、イギリス人とはイギリスに生まれた人を意味した。旧植民地からイギリスにやってきてイギリス国籍をとった人は含まれなかったという。彼らの中には、生まれた時にはまだ母国は独立しておらず、大英帝国の一部だった人もいたと言われる。この状況は、1999年のアイルランドの法改正まで続いたという。

ただ、この状況はアイルランド自身にもかぶさるものだったに違いない。当時、独立前に生まれたアイルランド人は、たくさんいた。彼らの出生地は「大英帝国」だったことになる。この現代でも100歳近い人はそうだろう。だからこそ「生まれた場所」が大事になる。アイルランドで生まれたからアイルランド人なのだと。

また、投票の話が出てくる。

アイルランドでは、英国市民は総選挙に投票できる。英国では、アイルランド市民と資格のある英連邦の市民が総選挙に投票できる。

「総選挙」という国政に投票できることは、大きなポイントだ(EUに関しては、EU市民であれば、住んでいるEU加盟国で、各国政府が定める一定の条件を満たせば地方選挙には投票できる。でも、国政はできない)。

中絶に関しては、今もって北アイルランドでは違法である。

このように長年「帝国」だったイギリスの広がりと、アイルランドとは対照的である。

このことは、ジブラルタル問題で「EU26カ国が自分たちの味方だ」と豪語せんばかりの強気のスペインと、北アイルランド問題で控えめで慎重な態度をとるアイルランドとの違いを、説明している部分があるように感じる。

アイルランドが、島国という天然のバリアを乗り越えて、大陸のシェンゲン協定に加盟するまでに意識が変わるのには、まだ時間がかかりそうだ。

しかし、隣国の元「帝国」は、今こんな有様である。「観光業を発展させる」という理由一つだけでも、スイスのように、シェンゲン協定に入ろうとする機運が高まってもおかしくないと思う。

UK、つまり連合王国は、アイルランドにとっては古きくびきを象徴する存在なのではないか。でも、連合王国よりもさらに大きなEU=欧州連合の登場によって、新しい地平線が見えてきたのではないだろうか。

一国では極めて難しいことでも、集団の力によって新たな一歩を踏み出せる。それは、欧州連合の創設の理念そのものであった。

今後どうなるのだろうか。

3に続く

ジョンソン首相の英国とEUの未来で、鍵を握るのはアイルランドだ:イギリスの解体と欧州連合を考える 3

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【上記写真の説明】2003年、アイルランド海軍船は、史上初めて英領北アイルランドのベルファスト港にやってきた。アメリカ映画で有名になったあの「タイタニック号」はベルファスト製で、英国海軍とジョイントイベントが行われた時のことだった。写真に映るアイルランド海軍の船上の旗は、イングランド旗にユニオンジャックがあしらわれたものである。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。元大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省機関の仕事を行う(2015年〜)。出版社の編集者出身。 早稲田大学卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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