【幕末こぼれ話】2月27日が「新選組の日」というのが大間違いである理由
2月27日は「新選組の日」であると、一部ネット上で書かれている。文久3年(1863)2月27日が、新選組の結成された日であり、それを記念して「新選組の日」に認定されたというのである。
しかし、これはまったくの間違いなのだ。2月27日は新選組が結成された日でも何でもなく、単なる誤りで記念日が認定されてしまったに過ぎない。なぜそんなことになったのか――、「新選組の日」に関する状況を整理してみよう。
間違った理由がようやく判明した
新選組が結成された日とみなされるのは、正しくは彼らが京都守護職・松平容保のお預かりとなった文久3年(1863)3月12日、もしくは13日であるべきだ。2月27日のほうは何の日でもないとはいっても、何かはしたのだろうと思われるだろうが、信じがたいことに本当に何もしていない日なのである。
ならばなぜ、この日が「新選組が結成された日」などとされたのだろうか。私も頭を悩ませたが、ようやくその理由がわかった。『国史大辞典』(吉川弘文館)の「新選組」の項目に、こう書いてあったのだ。
「京都に残った浪士組は、文久3年2月27日に京都守護職松平容保の監督下に入り――」
これは、内容的にまったく間違っている。本当に2月27日に松平容保の支配下に入ったのなら、それを新選組の結成日とするのに問題はないが、そういう事実はどこにもない。異説としても見当たらないのだ。
おそらくは単なる間違いなのだろう。そして、記念日を認定する団体も、『国史大辞典』が日本史の事典として権威のある本であることから、無条件に内容を信じてしまったもののようだ。
よりによって、たまたま記述が誤っている箇所を見て、「新選組が結成された日」を認定してしまうとは…。困った話もあったものだ。
新選組が誕生した日は
では新選組が結成された日、すなわち新選組が誕生した日はいつと見なすべきだろうか。
幕府が将軍上洛の護衛のために募集した「浪士組」は、文久3年2月23日に京都に到着したが、浪士組の首謀者の庄内浪士・清河八郎がその夜突然裏切った。自分たちの真の目的は幕府のためではなく、天皇のために尽くすことにあると、一同を前に宣言したのである。
そして3月3日、浪士組は江戸に帰って外国との戦争にそなえよという命令を、朝廷から出させることに清河は成功した。230人余りの浪士組の者は驚いたが、清河の巧みな弁舌に乗せられて大半はそのまま江戸に帰還することになる。
しかし近藤勇ら20人ばかりの者は、将軍警護という本来の目的をまだ果たしていないといって反対し、浪士組を脱退して京都に残る道を選んだ。彼らは3月10日、京都守護職をつとめる会津藩主・松平容保を頼り、自分たちが京都に残留することを許可してもらいたいと願い出た。
この願いが聞き届けられたのは、3月12日深夜のこと。近藤が故郷にあてた手紙に、こう書かれている。
「十二日夜九つ時、ようよう願いの趣意お聞き済みにあいなり、会津公お預かりとあいなりおり候」
壬生村で待機する近藤らのもとに、おそらくは会津藩の使者がやってきたのだろう。使者がもたらしたのは、近藤らを会津藩のお預かりとする、つまり臨時雇用するという吉報だった。
夜九つ時というのは、深夜0時のこと。なぜそんな時間に知らせが届けられたのかというと、翌日の13日に浪士組本隊が江戸に向かって出発することが決まっていたからだ。だからそれまでの間に、近藤らの身分を確定させてやる必要があったのだった。
ちなみに深夜0時ならば、12日とみなすのか、13日とみなすのかという問題がある。現代的に考えれば0時から日が改まるのだから13日となるが、江戸時代の一般的な考え方ではまだ12日のうちになるからだ。
ここは当時の慣習に従い、近藤らの会津藩お預かり決定は12日とみなすのが適切というべきだろう。すなわち新選組が誕生したのは3月12日――。この日をもって「新選組の日」と認定するのが、最も正しい考え方ということになる。
記念日認定団体の方々は、一刻も早く「新選組の日」を改めていただき、来年からは2月27日に無意味に騒ぐことのないようにお願いしたいものである。