樋口尚文の千夜千本 第214夜『ほかげ』(塚本晋也監督)
極限的な具体性があぶり出す虚無
世界で戦火がやまない。シカゴ大学教授の『人はなぜ戦うのか』という本を読んで苦笑したのだが、武力紛争の原因は指導者の「私的利益」「思い入れ」「はったり」「疑心暗鬼」「楽観バイアス」であるとあまりにも単純かつ具体的に書かれている。こう書かれるとほとんど理由としてはバカらしい限りだが、しかし実際人はこれしきのことで殺し合う程度の生きものなのだろう。『野火』の塚本晋也監督も、ひたすら具体的であることによって戦争の虚無、荒唐無稽さをあぶり出したが、『ほかげ』に至ってはひたすら銃後の市井の生活をつぶさに見つめることでその意図をみごとなしとげている。
高熱でうなされながら天井のシミを見ていると、それが人の顔に見えたり、どこか遠い異界への入り口に見えたりするが、本作も焼跡に辛うじて残った家の焦げた跡や崩れた跡などのアップが、そこで荒んだ暮らしをする人物たちの心象をかたちにしたように見えてくる。実際、そんな廃墟じみた家の汚れた畳が惨憺たる焦土の引き画に転ずる場面もあった。そんなまがまがしい雰囲気のあばら家には居酒屋のカウンターがあって、その真横の狭い居間に主人公の「女」こと趣里が横臥して、底なしのけだるさを体現する。心ならずも世話になっている利重剛の「中年」は闇物資を運んでくるかたわら、代償に「女」のからだを求める。
冒頭のこの一連の場面でやにわに「女」を突き上げる「中年」が果てそうになった瞬間にぞんざいに「女」の頭をつかんで下半身のほうに持ってくる。そして事が済むと「中年」は「女」を一瞥することさえなく、ほぼ機械的な冷たさで戸を閉めて去る。残された「女」の姿はカウンターの向こうに倒れていて見えないが、やがて何とか這い上がろうとする手だけが現れる。この冷えに冷え、乾きに乾いたアバンタイトルは圧倒的だ。まず「中年」が「女」の頭をつかんで達するところ、続いてそそくさと戸を閉めるところの、片鱗も「女」の人格を認めていない利重剛の動きの非情さが表現として正確である。次いでカウンターの向こうから現れる「女」の手も、趣里がその微妙な動きだけで絶望的な倦怠と虚無を伝えてやまない。
この冒頭部分の表現は本作全体の原基といっていい凝縮ぶりで、以後塚本監督は同様の厳格なパースペクティブで人物たちの動静を描き続け、断章的に入る森山未來と大森立嗣(優しい顔の麿赤児!)のくだりも含めていずれも不吉にして鮮やかである。そういえば、「女」は終盤に不測の病いに侵されるのだが、この描写に関しては節度ある静謐な描写が逆に戦慄的であった。ネットでこの引き算の演出と演技に対しどこぞの観客が「病気の表現が中途半端だったので意図が伝わらず」などと記しているのを見かけて呆れかえったが、自分のリテラシーの低さを省みずにこういう筋違いな書き込みをするのは本当にやめてほしい。実際この場面は高級な描写ながら判りやす過ぎるほどである。昔の映画ファンは映画が「わからない」時は反省と学習に走ったが、今どきの不出来な映画ファンは「わからない」映画は「つまらない」と映画のせいにするのが信じ難い。なぜ映画より前に自分の不明を疑わないか?さすがに塚本監督はこんなことは書けないだろうから、代わりに書く。
そして趣里はこうした困難な作品の意図を渾身で引き受け、寡黙でニヒルな表情と動き主体の演技で塚本監督の目指す作品世界を具現化してみせた。このたびのキネマ旬報ベスト・テンでは私を含む選考委員の票を集めて、みごと主演女優賞を獲得した。趣里の舞台の数々を観てきた私は、それらで発揮していた目覚ましい演技力を映画が活かしきれていないように思えてならなかったので、趣里を信頼して本作という稀有な演技開陳の場を与えてくれた塚本監督には謝意あるのみである。