「光る君へ」嫁姑の間に立つ一条天皇の苦悩を塩野瑛久が好演している
995年、道兼が逝った。
大河ドラマ「光る君へ」第18回「岐路」(脚本:大石静 演出:中泉慧)、開始15分に満たない前半のうちに道兼(玉置玲央)が亡くなった。「七日関白」(関白になってわずか七日で亡くなってしまった)と言われた彼らしい構成であった。
短い時間ながら芝居場もたっぷり。疫病に倒れた道兼を、道長(柄本佑)が御簾越しに見舞ったあと、苦しむ道兼を見捨てておけず、止めるのも聞かずに御簾をあげて中に入り抱きしめる。この場面は、台本にはなく、柄本佑が演出家に提案したそうだ。玉置玲央さんインタビューより。
そのまま去っていくのも無常観があってかっこいい気がするが、抱きしめたことで情感あふれるいいシーンになった。あとで、まひろ(吉高由里子)が道兼の死を聞いたとき、「あのお方の罪も無念もすべて天に昇って消えますように」と琵琶を奏でるシーンと呼応しているようにも思える。
兼家(段田安則)、道隆(井浦新)の死を見ていても、「光る君へ」は鎮魂の物語なのではないかと思う。現世ではいろんなことをしたけれど、亡くなるときは責められることなく無になりたい。道兼も亡くなる直前、祈っていた。
誰もが自分の野心のために酷いことばかり行っているなかで、酷いことをしていないのは、まひろと道長のみ。あとはほとんど、私利私欲にまみれてとても俗っぽい。それって意外とリアルだなあと思うが、まひろや道長は、誰もが清く善なる生き方ができたらいいのにという願いのこもった理想のキャラクターなのだろう。
道長、まひろのほかにも善であろうとする人物がいた。それが一条天皇だ。
人間の業のなかで苦悩する一条天皇
兼家、道隆、道兼が亡くなって、あとをつぐのは道長か伊周(三浦翔平)か。ここでまた人間のいやらしさが溢れ出る。
詮子(吉田羊)は一条天皇(塩野瑛久)に、跡継ぎを伊周にしてはいけないと激しく進言。「お上は中宮(高畑充希)に騙されているのです」「母を捨てて后をとるのですか」と姑根性を丸出しにする。
「野心がなく人にやさしくおれがおれがと前に出ない。お上に寄り添う関白となりましょう」という詮子の道長評はごもっとも。ドラマでは伊周のいいところはまったく描かれず、未熟な点ばかり強調されている。彼は、兼家、道隆路線の家の繁栄だけを重視した自分本位の政治を行うであろう。
それでも一条は愛する中宮こと定子の兄・伊周を選びたい。
定子と一条天皇は仲睦まじく、いい感じの逸話が残されているが、ドラマでは定子は兼家、道隆、伊周の家族としての役割を果たそうとしている油断のならない人物にも見える。
純真に一条天皇を愛しているだけに見えて、その言動の背後には藤原家が透けて見える。高畑充希が企みがあるような表情をするときゾクリとするし、重層的でおもしろい。
一条天皇は、藤原家に操られているようで、こっそり公卿たちの会話を聞いて、自分なりに考えている。でも、定子の手前もあって、判断にひじょうに気遣っている。
結果、右大臣に選んだのは、道長だった。
妻より母をとったというわけでは決してなく、周囲の声を聞き、自分なりに選択したのだろう。彼の気持ちは誰も知らない。一番上に立つ者の孤独を感じた。塩野瑛久のナイーブな表情は、誰も傷つけたくない心の表れに見える。
一番上に立つ者の使命を彼なりに認識しながら、特権を振りかざすこともしない、知性や理性をもった者として、ほかの誰とも違う佇まいをしている。
この采配に激怒した伊周は、定子を激しく詰り「御子を産め、御子を産め」と迫る。黙って耐えている定子。立場上、強くなるしかなかった苦しみも伝わってきた。そもそもの性格が悪ではなく、立場、環境が人を変えていくのだ。
道長が政権のトップに立ったら、この悪循環は変えられるのだろうか。
道長がなつかしの廃邸にくると、まひろがいて「昔の己に会いに来たのね」と心のなかで彼の心を見抜く。
まひろは道長を無視して去っていくのだが、「昔の己」とは初心を忘れるなということなのではないか。政権のトップに立つと、初心を忘れて、野心に溺れてしまう危険性もあるからだ。まひろは道長の道(民衆のための政治を行う)を規定した人物であり、抑止力になっている。
第19回は右大臣になった道長がどう行動するのかーー。そしてまひろはーー。
大河ドラマ「光る君へ」(NHK)
【総合】日曜 午後8時00分 / 再放送 翌週土曜 午後1時05分【BS・BSP4K】日曜 午後6時00分 【BSP4K】日曜 午後0時15分
【作】大石静
【音楽】冬野ユミ
【語り】伊東敏恵アナウンサー
【主演】吉高由里子
【スタッフ】
制作統括:内田ゆき、松園武大
プロデューサー:大越大士、高橋優香子
広報プロデューサー:川口俊介
演出:中島由貴、佐々木善春、中泉慧、黛りんたろう ほか