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【その後の鎌倉殿の13人】後鳥羽上皇の第3皇子を騙る男が鎌倉に現れた!その意外な正体とは

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄2年(1226)4月、源頼家(鎌倉幕府2代将軍)の遺児・公暁の名を騙る博打打ちが現れて、武士に誅殺される事件が起きますが、その翌年(1227年)の3月には、ある意味、その上をいく、とんでもない人物が現れます。

「我こそは隠岐院の三宮なり」と自称する者が現れるのです。「隠岐院」とは、後鳥羽上皇のこと。承久の乱(1221年)で鎌倉幕府に敗れて、隠岐島に配流となったことから、そう呼称されました(1227年当時、上皇は隠岐で存命でした)。その後鳥羽上皇の「第3皇子だ」と称する者が現れたのだから、えらいことです(ちなみに、後鳥羽上皇の第3皇子は、順徳天皇ですが、承久の乱後、佐渡に配流となっていました)。

第3皇子を自称する者は「奸謀」(良からぬ企み)を企んでいたといいますが、具体的に何をしようとしたのかは不明です。自称・第3皇子に従う「伴類」は、僅か4・5人ほどといいますから、何かやるにしても、たかがしれていたでしょうが。挙兵・合戦というよりは、物盗り、強盗でもするような人数です。

自称・第3皇子とその仲間たちは、鎌倉・由比ヶ浜において、波多野経朝により、生け捕られました。どこからか鎌倉に流れついたのか、元々、鎌倉にいたのかは逮捕時点では分からなかったのですが、平盛綱や金窪行親(いずれも北条氏の仕える武士)が、彼らを尋問したところによると「伊豆前司の所従(家来、下級の従者)だったが、百姓をしている」と白状したようです。「伊豆前司」(伊豆の前国司)が誰を指すかは分かりませんが、伊豆守に任命されるも、以仁王の挙兵(1180年)に父・源頼政と与し、自害した源仲綱のことかもしれません。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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