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大坂夏の陣で戦死した真田信繁の最期には、諸説あった。その真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、大坂夏の陣で真田信繁も討ち死にしたが、その最期については諸説ある。信繁の最期はどういうものだったのか、考えることにしよう。

 慶長20年(1615)5月に大坂夏の陣の攻防が本格化すると、豊臣方は徳川方に連戦連敗し、後藤又兵衛らの主力となる武将を次々と失った。そして、ついに信繁は徳川方に最後の戦いを挑んだのである。

 5月7日の正午頃、信繁の率いる約3千の「赤備え」の軍勢は、家康の本陣へ攻め込んだ。信繁は3度も家康の本陣へ突撃を繰り返したので、徳川方の勇猛な武将も逃亡するありさまだったという。最後まで家康に付き従っていたのは、金地院崇伝と本多政重のみだったとさえいわれている(諸説あり)。

 ところで、信繁の子の大助は、父とともに家康と戦うつもりだった(『列祖成蹟』)。しかし、信繁は大助を大坂城に戻るよう指示し、秀頼のそばに仕えるよう命じた。大助は不本意ながらも、渋々ながら父の命に応じたという。その後も、信繁は家康と激闘を繰り広げ、互いに譲らなかったと伝わっている。

 『イエズス会日本報告集』などによると、信繁らの軍勢は徳川方に果敢に戦いを挑み、ついには敗走させたという。追い詰められた家康は切腹を覚悟したが、やがて形勢が逆転したので中止したといわれている。

 徳川方の史料『駿府記』や細川方の記録も、信繁が戦いを有利に進めたと書いている。二次史料とはいえ、徳川方の史料が苦戦を正直に記しているので、信繁が家康を相手に有利に戦いを進めたのは疑いないだろう。

 信繁の最期は、どのようなものだったのか。『綿考輯録』は、信繁が合戦で討ち死にしたとあり、これまでにない大手柄であると称えられた。首は、松平忠直の鉄砲頭の西尾久作が取ったと記している。しかし、久作は信繁が怪我をして休んでいるところを襲い、首を取ったので、大した手柄にもならないと評価している。

 『慶長見聞記』には、信繁が従者らに薬を与えているとき、西尾久作が信繁の首を取ったと記している。どちらにしても、久作は信繁と戦って首を取ったのではなく、怪我をした信繁が休んでいるとき(あるいは従者に薬を与えているとき)だったので、その評価は著しく低い。

 ところが、『真武内伝』には、信繁が配下の者とともに徳川方に攻撃を仕掛けた際、久作が器用に信繁の馬の尾をつかんで、進軍を阻んだと記す。

 2人は刀を抜いて戦ったが、すでに信繁はかなりの負傷をしており、疲労もあって馬から転げ落ちた。その隙を狙って、久作は信繁の首を取ったという。信繁と久作が一騎打ちをしたのは判然としないが、久作が信繁の首を取ったのは事実である。

 信繁が率いる真田勢は、島津氏が「真田日本一の兵」と称えており、後世に伝わるほど高い評価を得た(『薩藩旧記雑録』)。ただ、信繁の死をめぐっては、あまりに謎が多い。改めて取り上げるが、信繁には戦場を離脱し生き残ったという説すらある。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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