【深掘り「鎌倉殿の13人」】承久の乱前夜。後鳥羽上皇が三浦義村を頼った納得の理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎え、ついに後鳥羽上皇が北条義時の追討を決意した。そして、後鳥羽が頼りにしたのが三浦義村だった。この点について、詳しく掘り下げてみよう。
後鳥羽と義時との関係は徐々に悪化し、ついに後鳥羽は義時の追討を決意した。しかし、幕府が多くの御家人を動員し得るのに対して、朝廷が動員できる兵力は厳しい状況にあった。そのような状況下で、後鳥羽が動員し得るのは、西面の武士と在京御家人だった。
西面の武士とは、幕府の領域圏ではない西国の有力武士、幕府の政争に敗れた者を院の西面に伺候させた組織である。たとえば、尾張の山田重忠はかつて源行家に従い、墨俣で平家と戦って敗死した重満の子だった。そういう武士が後鳥羽のもとに集まっていた。
在京御家人とは、①京都守護や大番役を務める御家人、②上皇に奉仕する源氏一門の御家人、③西国の御家人のうち在京していた者が該当する。とはいえ、彼らは後鳥羽にだけ奉公するのではなく、幕府にも仕えるという二面性があった。
それでも幕府に対抗するには不足だった。西国に広く軍勢を求めるため、起用されたのが藤原秀康だった。秀康は諸国の受領を経験しており、財力も豊富だった。後鳥羽は秀康の人脈などを活用し、広く兵を集めようとしたのだ。
とはいえ、まだ軍兵は不足したので、幕府の御家人を味方に誘うよりほかがなかった。そこで、後鳥羽は秀康を通じて、在京中の三浦胤義に声を掛けた。胤義は義村の弟だった。後鳥羽は義村が味方すれば、東国の武士も味方すると考えたのだ。
後鳥羽は胤義に書状を送り、「味方になれば、義村を日本国の惣追捕使にしよう」と約束した。手応えを感じた後鳥羽は、承久3年(1221)5月15日に義時追討の院宣を発したのである。それは、東国の有力な武士にも届けられた。
ところが、後鳥羽の作戦はうまくいかなかった。胤義は義村に相談したものの、義村は後鳥羽に与しなかった。あろうことか、後鳥羽の書状を義時のもとに持参し、幕府への忠節を誓ったのである。その結果、後鳥羽の目論見は見事に崩れたのである。