徳川家康の妻になった阿茶局は、有能な側室として知られていた
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康がお万の方にお手付きをした。実は、家康には阿茶局という有能な側室がいたので、詳しく解説することにしよう。
天文24年(1555)、阿茶局は飯田直政の娘として誕生した。直政は武田氏の家臣だった。武田氏と今川氏が和睦した際、直政は今川氏の家臣になった変わり種だが、その生涯は不明な点が多い。
天正元年(1573)、阿茶局は今川氏の家臣・神尾忠重と結婚した。阿茶局は19歳だったので、やや晩婚だった。しかし、忠重は4年後に亡くなり、阿茶局は子の猪之助を抱えて路頭に迷った。そのときに出会ったのが、ほかならぬ徳川家康だ。
阿茶局は家康の求めに応じ側室となり、阿茶局と称した。しかし、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの陣中で流産するなど、家康との間には実子が誕生しなかった。
天正17年(1589)、家康の妻・西郷局が死没したので、阿茶局が秀忠、忠吉の養育を任されることになった。阿茶局は聡明だったので、家康から奥向きのことを任され、大奥の統制に尽力した。また、政治の重要な場面でも、大きな力を発揮した。
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、小早川秀秋は西軍を裏切って、家康の東軍に味方した。一説によると、両者の仲介を行ったのは、阿茶局であるといわれている。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、徳川家と豊臣家が和睦を結ぶことになった。阿茶局は家康の意向を受け、本多正純とともに和睦交渉のテーブルについた。その後、板倉重昌とともに大坂城へ向かい、豊臣秀頼・淀殿から誓紙を受け取った。
家康が亡くなると、側室は当時の慣習にならって落飾した。ところが、阿茶局は家康の遺言により、落飾することなく、出家しないまま雲光院と号した。その後の阿茶局は、秀忠の五女・和子が後水尾天皇に入内する際、母代わりで入洛し、後水尾天皇から従一位を賜った。
寛永9年(1632)に秀忠が亡くなると、阿茶局は正式に落飾した。阿茶局が亡くなったのは、寛永14年(1637)のことである。享年83。墓所は、雲光院(東京都江東区)にある。