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【戦国時代】「あれ、勝ったのは我々では?」合戦を制した側がなぜか不利!勝敗を覆した恐るべき調略・3選

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

戦いに勝利した側が、不利になる。

戦いに敗北した側が、有利になる。

「まさか、そんなことが」・・と、あなたは思うでしょうか?

しかし日本史における合戦の行方を見わたしたとき、このような

驚くべき状況が、実在するのです。

もちろん何もせず、勝手にそうなるはずはありません。

その裏には合戦の敗北側が繰り出した、起死回生の策が存在していました。

まさに、おそるべき調略の冴え。この記事ではそうした驚異的な出来事を

3つピックアップし、成り行きも含め、わかりやすくお話します。

“完全敗北の状況を、ひっくり返す”

そこには戦国の世と言わず、今お読みのあなたが、今後の人生を上手く立ち回るため、

何かしらのヒントとなることも、あるかも知れません。

ぜひ最後までご覧頂けましたら、幸いです。

①【武田家VS村上家】戦わずして勝つこそ最上なり

戦国最強と言えば、真っ先に名が挙げられる1人、武田信玄。

しかし、そんな彼を合戦で2度も負かし、大ピンチに追いやった武将を

あなたはご存知でしょうか?

その名は村上義清(むらかみ・よしきよ)。

今で言う長野県の1地方に勢力を持ち、北上する武田家と衝突しました。

1度目は、武田軍8千VS村上軍5千(上田原の戦い)という兵力差にも関わらず

武田勢は本陣まで切り込まれ、武田四天王と称された猛将のうち、2人までもが戦死。

手痛い打撃を受け、撤退を余儀なくされました。

それならばと、今度は村上軍にとって「急所」とも言える地に建つ

砥石(といし)城を攻撃しますが、まさかの返り討ちに遭って大敗。

武田信玄の人生における、最大クラスの挫折とも言われる、負け戦です。

村上義清は一般的な知名度こそ低いですが、その軍才は戦国時代でも

トップクラスと言っても、過言ではない武将でしょう。

順調に勢力を拡大してきた武田家を退け、兵士たちの士気も急上昇します。

・・さて、ほどなくして砥石城には、日和見を決めていた周辺勢力の兵団が馳せ参じ、

このような事を申し出ました。

「我らこれまで、武田家の武威に、ねじ伏せられて参った。

されど貴殿らの勝利に奮い立ち申した。これから共に戦わせて下され!」

これで風向きは、ますます村上家に・・と思える出来事ですね。

が、しかし。

この兵団、じつは武田家の内通者でした。たちまちクーデターを起こして

城主を追い出すと、ほぼ無血で砥石城を制圧してしまいます。

度肝を抜かれた村上義清は、あわてて挽回に乗り出すも・・時すでに遅し。

気づけば他の周辺勢力も、同時に調略され、武田方へ鞍替えしていたのです。

オセロに例えれば“白”と見なしていた駒が、いきなり“黒”になったようなものですから、

たまりません。

相手が次の1手で“ポン”と挟めば、たちまち自陣(村上家)は壊滅する状況に。

もはや勝機ナシと悟った村上義清は、本拠の城を放棄して、他国へ亡命したのでした。

ほとんど戦らしい戦もせず、最終決着をつけてしまった手腕は、あまりにも鮮やか。

この計略は、武田軍に所属した「真田家」によるものと、伝わっています。

逆に合戦を制した村上軍の兵士からすれば「え、なぜ我々が逃げるハメに?

と、訳が分からなかったことでしょう。

武田家といえば、強力な兵馬で圧倒するイメージが強いですが、実際には

数々の策略が、その勢力拡大に重要な要素となっていました。

武力だけでは限界があり、出来る限り「戦わずして勝つ」手段こそ最上。

それを信玄は、村上家との戦いで、学んだのかもしれません。

②【大内家VS尼子・毛利家】過去を水に流し敵将を認める

まだ織田信長が生まれるより、少し前の時代。

日本の中国地方は、大内家尼子(あまご)家という2大勢力が、覇権を争っていました。

後にこの2勢力をも凌ぎ、巨大勢力へ成長する毛利元就も、最初は尼子家に従属する小勢力でした。

ときは1524年。大内家は今でいう広島県を手中におさめるべく、

総勢25000人とも言われる、大軍を編成。そして厳島に本陣を構えました。

しかも軍は、当主とその息子が直々に率いており、その本気度が伺えます。

数で圧倒する大内家でしたが、尼子方の思わぬ踏ん張りに苦戦。

さらには大内家の次代当主・義隆(よしたか)は、このときが初陣でしたが

攻略を試みた佐東銀山(さとうかなやま)城の攻防戦で、毛利元就の奇襲を受けて敗北。

物理的な打撃のみならず、外聞的にも手痛い敗戦となってしまいました。

・・が、しかし。

この状況から大内家の取った行動が、起死回生となります。

この合戦の前後に毛利家は、その犠牲や活躍ぶりにも関わらず、

尼子家からの恩賞が少ないことに、不満を抱いていました。

そんな元就のもとに、大内家の密使が急接近。以下の様なメッセージを伝えました。

  • 我々を退けた毛利殿の実力は、じつにお見事。
  • 大内につけば、所領(かなり広い)を与える。
  • 過去のことは、すべて水に流して縁を結びたい。

これを、絶妙なタイミングで提示したのです。

これには流石の元就も心を動かされ、大内家へ鞍替えする決断をします。

毛利家は広島県の1地方を治めていましたが、これを機に周辺勢力も大内方に。

そして激しい攻防がくり広げられた佐東銀山城も、あっさり毛利家(大内側)の手中に落ちたのでした。

尼子兵からすれば「え、あの勝利は何だったの?」という思いでしょう。

さて、このとき大内家の当主は、義興(よしおき)という武将でしたが

自軍を敗退させ、しかも息子の初陣を散々な結果に終わらせた相手に対し

恨むことなく実力を評価し、味方につける対応は、器の大きさを感じさせられます。

この数年後、 義興は52才で没するのですが、家臣団はしっかりと統率されており、動揺しませんでした。

これまで大内家で頻発していた後継ぎ争いも、いっさい起こらず。

一時は息子が、天下統一の有力候補とも言える版図を築いたのです。

もし、大内義興がもう少し長生きしていれば、信長や家康の活躍する前に、

大内家の天下統一というシナリオも、あるいは夢ではなかったかも知れません。

③【豊臣家VS徳川家】勝者とは最後に笑う者なり

戦国時代の、天下分け目の合戦・・と言えば。

ほぼ大半の人は「関ケ原の戦い」を思い浮かべると思います。

しかし、それよりも十数年前に、じつは覇権をかけた一大決戦が勃発していました。

しかも合戦後に勝敗をひっくり返す、神算鬼謀があった事実は、あまり広く知られていません。

ときは本能寺の変が起きた、数年後。

明智光秀と柴田勝家に勝利した羽柴秀吉は、日本における最大勢力へと急成長します。

とはいえ主君の織田家は滅亡したわけではなく、信長の次男である

「織田信雄(のぶかつ)」が、未だ健在。

いちおう秀吉は、彼の家臣という立場でしたが・・世の大半は、それは名目上のみと、見なしていました。

秀吉こそが信長の後継者といった扱いで、自身がないがしろにされていると感じた信雄は反発。

秀吉に媚びた武将を処刑するといった行動を起こし、ここに2人の対立は決定的になりました。

そこへ乗っかり、天下を手中にするべく躍り出た武将こそが、徳川家康。

信雄の支援を公言して挙兵、さらには関東の大大名・北条家、四国の覇者・長曾我部(ちょうそかべ)家、信長さえも手を焼いた雑賀(さいが)衆らと、手を結びました。

こうして秀吉包囲網を作り上げると、自らも大軍を率いて織田家の本拠、尾張の国へ。

世にいう「小牧・長久手の戦い」の始まりでした。

秀吉軍も名立たる武将を出陣させると、互いに各所で一進一退。

膠着状態となるのですが・・ここで秀吉サイドが一計を案じます。

ひそかに軍を2手に分け、別動隊が家康の本拠地・三河を急襲。

徳川軍を大混乱に陥らせ、一気に瓦解・・させる作戦だったのですが。

この計略を見抜いた家康軍は、逆に別動隊を不意打ちして、これを撃滅。

秀吉軍は大幅に戦力ダウンし、旗色は一気に徳川へ傾いたのでした。

これにより一般的にも、この合戦は家康の勝利と見なされています。

・・が、しかし。ここから秀吉が、おそるべき本領を発揮。

とつぜん織田信雄へ個別に接触すると、全力でこちらを攻めると脅したり、織田家の当主としては存続を保証するなど、色々なことを言って揺さぶります。

その術中にハマった信雄は「ま、まあ。それで良かろう」と条件を飲み、いきなり秀吉と和解してしまいました。

徳川軍はとつぜん大義名分を奪われた格好で、戦の中止に追い込まれます。

そこから秀吉は畳み掛けるように、自身の包囲網に参加した勢力を各個撃破。

あるいは調略を用いて、味方に引き入れてしまいます。

中でもすさまじいのが、とうじ家康の片腕とも言える武将を篭絡し、寝返らせてしまったことです。(※どう口説き落としたかは、諸説あり)

徳川軍はとうぜん、大幅な戦力ダウン。

何より痛いのが、内情や動向が丸裸にされてしまったことです。こうなっては、風向きは秀吉サイドへ。

流れを持って行ったところで、今度はとつぜん和平の縁組み(・・といっても、秀吉が上の立場)を持ちかけます。

さすがの家康もこれは渋りますが、そうすると「争いはいかん。平和が一番じゃ!」といった話を、世に喧伝し始めます。

次第に「ああ、ワシはこんなに歩み寄っているのに・・のう?」といった雰囲気を作り出し、これを拒否し続ける徳川家が「野心で世を乱している」的な空気を、醸成してしまいました。

ついに家康は折れ、豊臣家に臣従。

結果的に秀吉の存命中は、反抗しませんでしたので、1度目の天下分け目は、豊臣家の大勝利と言えるでしょう。

それも“決戦で敗れた”にも関わらず、頂点に立った人物というのは、世界中の歴史を見わたしても異例です。

相手をおだてたり、すかしたり。ときに下手に出ることも厭わない柔軟さは、もとが農民出身であり、変なプライドに拘らなかった事も大きいでしょう。

まさに戦国1とも言える人心掌握術で、天下に昇りつめた知恵は、見事という他ありません。

成功者への道

今回ご紹介した3例は、戦乱の世のみならず、現代社会で大成功を収める人にも、共通する要素があります。

それは、ここぞという勝負で失敗したときも、盤面から目を離さないこと。

そして、現状の最善手を考え続け、実行に移したことです。

試験、就職、恋愛、スポーツ・・わたしたちは大勝負に負けたとき、とうぜんの心理として落ち込み、しばらくそのことを考えたくない程です。

成功者でも、もちろん失敗は凹みます。しかし勝負の局面からは、決して目を離さないのです。

「〇〇票差で選挙に負けた。じゃあ足りない票はいくつで、どうすれば動かせる?」

「プロジェクトが会議で反対された。でも、〇〇部長さえ納得すれば、通りそうだ」

たとえば、このような感じでしょうか。

もし私たちにも、心の底から実現したい目標があるとき。

ぜひ柔軟に知恵を巡らせた戦国武将に倣い、夢を実現させたいものですね。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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