大坂の陣で豊臣方が敗北したのは、無能な大野治長が主導したからだったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣が開戦し、大野治長も登場していた。治長は豊臣家の譜代の家臣だったが、大坂の陣では牢人衆の作戦に反対するなど、敗北のきっかけを作ったという。治長は、本当に無能な武将だったのか考えることにしよう。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、治長は織田有楽とともに豊臣家を支え、牢人衆とともに困難な徳川勢との戦いに挑んだ。しかし、大坂冬の陣後、治長には無能とのレッテルが貼られた。そこには、第一に淀殿との芳しくない関係があった。
治長は、淀殿と密通していたといわれている。それは噂話に過ぎないと考えられるが、同時代史料の『萩藩閥閲録』所収文書、『多聞院日記』だけでなく、朝鮮側の史料『看羊録』にも書かれている。2人の不倫は、かなり世間での話題になっていたようだ。
一説によると、秀頼は治長と淀殿の子だったという(『明良洪範』)。そのような説が広まったのは、おそらく治長と淀殿との密通の噂が根拠になったと考えられる。秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も真偽をめぐって論争がある。
治長は大坂の陣における作戦を立案する際、軍議で真田信繁ら牢人衆らの献策を拒否し、徳川勢を討つ絶好のチャンスを失ったといわれている。治長は、常に牢人衆と対立していたかのように描かれてきた。
牢人衆は積極的に打って出る作戦を提案し、治長は籠城戦を主張した。結果的に籠城戦が採用されたので、牢人衆は「打って出れば徳川勢に勝てたのに」と悔しがった。こうして治長は、豊臣家を滅亡させた張本人だと思われたのだ。
現在、治長の評価は変わっているように思える。治長は、豊臣家存続のために奔走しており、徳川家との和睦締結にも心血を注いだ。当時、京都所司代を務めていた板倉勝重は、書状の中で「治長は粘り強く事に当たり、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかった」と記している。
治長は豊臣家のためなら、悪事すら辞さないという強い覚悟を持っており、勝重は評価していたのである。つまり、治長は豊臣家の忠臣だったと、勝重は高く評価しているのである。
大坂冬の陣後、治長は有楽とともに徳川方と和睦交渉を行い、締結後は人質として子の治徳を徳川方に送った。しかし、のちに有楽は大坂城を退城し、治長は苦境に立たされた。和睦締結後、大坂城の惣構や堀などが埋め立てられ、周囲は丸裸になった。
慶長20年(1615)に大坂夏の陣がはじまると、豊臣方はたちまち劣勢に追い込まれた。治長は秀頼・淀殿の助命に奔走するが、秀頼の妻・千姫を逃がすのが精一杯だった。5月8日、治長は秀頼らとともに大坂城で運命をともにした。
治長は茶人の古田織部と親交があり、ともに風流を解する人物であったといわれている。後世になって、治長の評価は歪められた感がある。しかし、実際の治長は豊臣家存続のために尽力し、死をすら覚悟していた。今後、治長の評価は改められるべきだろう。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)