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【高校野球】61年前の慶応甲子園戦士、震災で宮城の高校を支援「決勝はニュートラルね」

高橋昌江フリーライター
慶応OBの大滝さん。2019年3月10日、志津川高校グラウンドにて(筆者撮影)

 第105回全国高校野球選手権記念大会(阪神甲子園球場)はきょう23日に決勝を迎える。栄冠を掴むのは、2年連続で仙台育英(宮城)か、それとも107年ぶりに慶応義塾(神奈川)か。このファイナルを北海道から特別な思いで見届ける人がいる。慶応が単独出場した61年前に背番号14でベンチ入りしていた大滝隆太さんだ。

■「今年の慶応の選手は強い」

 大滝さんは2011年に発生した東日本大震災で甚大な津波被害を受けた南三陸町を訪れ、志津川高(今年度から南三陸高)に公式戦用ユニホームなどを寄贈した。その後も新型コロナが流行する前まで毎年のように南三陸町などを訪ね、宮城の高校生と交流を深め、街の復興を感じてきた。母校・慶応が、縁ある宮城の代表校と甲子園の決勝で対戦する。

「すごいことになっているね、何か感じるものはあるよ。僕ももうね、78歳だからね、ハッハッハッハッ。長いこと生きて、つくづく思うね。おかげさまで心身ともに健康で、元気なんだ。そうやっていると、面白い、楽しいことがあるな。嬉しいですよ」

 母校・慶応が103年ぶりの決勝に進出。「今年の慶応の選手は確かに強いわ、強い。プロ向きとか、そういうことじゃなくて、高校生としてレベルが高いね」とうなる。そして、「昔が蘇ってきていますよ」と高校時代を懐古。60年以上前の甲子園を昨日のことのように思い出している。

■甲子園では春夏連覇の作新学院に惨敗

「神奈川県から慶応が単独出場というのは61年ぶりなんだよね。僕は2年で背番号14番だったんだ」

 1回戦は長野と対戦し、3対0で勝利した。2回戦はエース・八木沢荘六を擁し、センバツ初優勝を果たしていた作新学院(栃木)と対戦。0対7で完敗した。

「作新学院の八木沢さんは赤痢で出てこなくて、加藤(斌)さんという背番号11が出てきてさ。ラッキーと思ったらすごいピッチャーでね。中日に行ったんだけど。それで、ボロクソに負けた時、僕はベンチにいたの」

 手元の資料で1962年夏の慶応の甲子園ベンチ入りメンバーを確認すると、背番号14は「長浜毅」となっている。

「いきさつがあってね。神奈川県の大会は18人がベンチに入れて、僕は背番号18番だったの。それが甲子園では14人に絞られる。僕はオールマイティーのスーパーサブだったから、ピンチランナーでも守りでも使えるということで長浜さんと入れ替わったんだよ」

 かくして背番号14でベンチ入りした大滝さん。「もっと裏話があってさ」と続ける。

「作新学院にボロクソに負けるわけだけど、9回に4番の内藤(隆夫)さんがツーベースを打って、1死二塁になったんだよね。そこで監督の石原伸晃さんが僕をピンチランナーに出してくれたんだよ。プレーがかかって、舞い上がったっていうか、何を考えていたか知らないけど、けん制でタッチアウトになっちゃった(笑)。全国ネットの放送だから、同級生がみんな見ているわけ。学校に行ったら、『大滝、お前、大した選手じゃないな』って言われてさ(笑)。一生、言われているんだ(笑)。そんな思い出が蘇っていて、今の状況を楽しんでいますよ」

 なお、作新学院はその後も勝ち進み、春夏連覇を達成した。

 大滝さんは慶大に進み、主将を務めた。外野手として活躍し、明大・高田繁(ヤクルト監督など)、早大・谷沢健一(中日で活躍)とともに4年春にはベストナインを獲得。卒業後は社会人野球の拓殖銀行でプレーした。

■宮城・南三陸町の高校を支援したい

 大滝さんと宮城との縁は今から12年前。東日本大震災である。

「街に出ると募金活動をしているけど、どこにどう使われるのかなって思ってね。僕は野球をやっていて、いろんないいことがあったからすごくよかったと思っている。野球にどうやって恩返ししようかな、というところからですよ」

 メディアでは震災の被害の様子が連日、報じられている。そんな時、南三陸町の佐藤仁町長が仙台商高で甲子園出場経験があることを知った。元ヤクルトの八重樫幸雄さんと同級生で、69年夏に甲子園の土を踏んでいる。「調べたら、南三陸町には志津川高校という高校がある、って」。報道では、防災無線で避難を呼びかけ続けた町職員の遠藤未希さんがクローズアップされ、大滝さんの中で南三陸町への思いが強くなっていった。

 行ってみねぇと分かんねぇ――。

「家族や仲間に話したら、『お前、バカじゃないか』『何を考えているんだ』ってね。協力してやる、っていうのは誰もいなくて」と、周囲の理解は得られなかったが、震災から1ヶ月も経たずに札幌の自宅を車で出発した。フェリーに乗って青森へ。東北自動車道を南下し、南三陸町を目指した。内陸から山を越えると、景色が一変。「なんなんだ、これっ!」と信じられない光景を目にしながら、国道45号線を走った。その道中に出会ったのが遠藤政則さん。事情を話すと、遠藤さんの息子・直也さんはその春に志津川高を卒業したばかりで野球部に所属し、遠藤さんは保護者会長を務めていたという。何たる偶然か。

「何かしらの形でバックアップしたいんだよね、という話をしてね。3年後か、5年後か分からないけどさ、地方大会を勝ち抜いて甲子園に行くというのもなかなか難しいかもしれないけど、センバツ大会には21世紀枠っていうのがある。志津川高でいろんな意味で仕組みができて、ある程度のところまでいったら、甲子園に行く夢って不可能じゃないんだよね。そんなことあったら遠藤さん、甲子園でさ、どうなると思う? って話をしているうちに俺も興奮しちゃってさ、ワイワイ泣いちゃってさ(苦笑)」

■公式戦用ユニホーム15着を寄贈

 大滝さんの父・義郎さんは戦後、神奈川県葉山町の葉山中に野球部を復活させ、自ら監督も務めた人物だった。戦後の荒廃した社会の中で青少年の教育にはスポーツが重要だ、との思いからだった。戦争と災害の違いはあれど、スポーツが、野球が、街の復興の推進に一役買うのではないか。そんな思いを2時間も3時間も話した。

「親父のね、そういうDNAを引き継いだ。僕は基本的にお節介」

 遠藤さんとの縁から町や野球部の指導者とコンタクトが取れた。

「道具は部室にあったけど、ユニホームは自宅にあったから全部、流されちゃった、ってさ。春の大会は中止になったけど、夏の大会はある。だけど、公式戦用のユニホームじゃないと大会には出られないっていうじゃない。それで、ユニホームを贈ることにしました。仲間に『現物支給で頼む』って言ったら、ボールだとか道具を協力してくれましたよ」

 6月に公式戦用ユニホーム15着をプレゼントし、宮城大会での戦いぶりも見守った。初戦を突破したが、2回戦の相手は震災の混乱の中でセンバツ大会を戦ってきた東北高で、0−8の7回コールド負けだった。震災後、南三陸町の町長が甲子園球児だったことを知り、志津川高との縁ができた大滝さん。北海道から何度も彼らの元を訪ね、あの夏を駆け抜けた。「一緒に戦った? そんな感じ、あるね」。

 仮設住宅が建つ校庭での練習風景も忘れられない。ある日の練習を思い出し、大滝さんが笑う。

「グラウンドに仮設住宅があった時にさ、窓からばあちゃんが『頑張れ、頑張れ』って。そんな風景を見たことあるよ。で、そのばあちゃんがさ、『おめぇはまだそんなことやってんのか』って言っててね(笑)。だって、毎日、見ているわけだからさ、分かるんだよ(笑)。そういうシチュエーションもあって、これ、すげえなって思ったね」

 2018年4月まで仮設住宅と“共存”し、住民は大会に出発する時は見送りをしてくれたり、球場に応援に来てくれたりもした。そんな交流の”日常”が大滝さんの脳裏に焼き付いている。

2018年6月4日、仮設住宅が撤去されたばかりの志津川高(現南三陸高)のグラウンド。思い切り練習できるようになったが、住民との交流がなくなり、寂しさもあったようだ(筆者撮影)
2018年6月4日、仮設住宅が撤去されたばかりの志津川高(現南三陸高)のグラウンド。思い切り練習できるようになったが、住民との交流がなくなり、寂しさもあったようだ(筆者撮影)

 志津川高は今年度から南三陸高と校名を変更し、県内初の「全国募集」も始まった。野球部にも消防士を目指す東京出身者が一人、入部。彼は「海が近くにあるっていうことが何よりも幸せ。毎日、海を見ながら野球ができるというのもありがたいし、外に出たら常に潮風が吹いていて、その匂いをかげるのも幸せです。地元は落ち着かないけど、ここはゆっくりできる。リラックスできます」と南三陸町での生活を気に入っている。

■「ストッキングが違うんだよね」

 母校・慶応と宮城代表・仙台育英が日本一をかけて戦う。今春センバツでは初戦で当たり、延長10回タイブレークの末、慶応が1対2サヨナラ負け。夏はどうなるか。

「小宅(雅己)はコントロールがよくて、甲子園の時の斎藤佑樹(早実、元日本ハム)みたいな感じだな。小宅が3点以内に抑えたら勝てるかもしれない。でも、崩れたらボロ負けするぞ、きっと。仙台育英のピッチャーは、本当にえぐいよな!(笑)」

 ーーどっちを応援するんですか?

「全然、まったくニュートラルね。似たようなユニホームだしね」

 仙台育英がユニホームをモデルチェンジする際、慶応義塾から了承を得て、グレーを基調とした似たデザインになった。

「ストッキングが違うんだよね。ストッキングの白のラインが慶応は2本なんですよ。仙台育英は1本なんだ。1本というのは古いやつなんだよ。慶応も昔は1本だったの。白いラインは大学の野球部が完全優勝(全勝優勝)した記念のラインなんだよ(28年秋、85年秋)。仙台育英のストッキングは昔のやつを真似したんだろうね。でも、去年の甲子園で優勝しているから、今回優勝したら白いラインを3本にしたらいいんだ。慶応の上をいった、ってね(笑)」

 ユーモアの中に母校への愛着を感じさせ、喜寿を過ぎてもパワフルな大滝さん。野球への情熱は衰え知らず。決勝は勝敗を気にせず、野球を純粋に楽しむのだろう。

こちらも併せて→復興目指す南三陸で起きたひとつのドラマ つながった野球の縁(2019年4月14日、Full-Count)

フリーライター

1987年3月7日生まれ。宮城県栗原市(旧若柳町)出身。大学卒業後、仙台市在住のフリーライターとなり、東北地方のベースボール型競技(野球・ソフトボール)を中心にスポーツを取材。専門誌やWebサイト、地域スポーツ誌などに寄稿している。中学、高校、大学とソフトボール部に所属。大学では2度のインカレ優勝を経験し、ベンチ外で日本一を目指す過程を体験したことが原点。大学3年から新聞部と兼部し、学生記者として取材経験も積んだ。ポジションは捕手。右投右打。

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