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【大学野球】御殿場西OBの東日本国際大・長島「神様っす、森下先生」 亡き恩師の言葉でかけた初アーチ

高橋昌江フリーライター
初スタメンで放ったホームランボールを手にする東日本国際大・長島(筆者撮影)

■春の公式戦は全14試合にベンチ入りも出番なく

 人を支えるもの。人の原動力になるもの。その1つが言葉だろう。

 東日本国際大3年の長島汰平内野手は、御殿場西高(静岡)で指導を受けた森下知幸さんの言葉を胸に刻み、野球に打ち込んできた。

――お前は順番待ちの選手

――やり切らな、あかんぞ

 特に、この2つの言葉で「頑張れました」と言う。

 今年の春。南東北大学野球連盟のリーグ戦で、長島は初めてベンチ入りを果たした。レギュラーはつかめなかったが、セカンド、サード、ショートを守れる167センチ、70キロの内野手として出番をうかがっていた。優勝したリーグ戦の全10試合、2年ぶりにベスト4入りした6月の全日本大学選手権の4試合、そのすべてでベンチに入った。しかし、出場は1試合もなかった。

「自分、ベンチにいていいのかなって思っていたんですけど(苦笑)、途中からは入れているんだから有り難いなと思って。バッターが出塁すると、エルボー(ガード)とかフット(ガード)を取りに行く係でした。ベンチ入りメンバーが変わる試合もあるので、役割が変わる人もいるんですけど、自分はずっとベンチにいるので、ずっとエルボーとフットを取りに行っていました(笑)」

 準備しろ――。そう言われて体を動かしても、交代のタイミングがなく、春は終わった。

 全国大会のベスト4をベンチ入りメンバーとして経験できたことは嬉しかった。だが、「出られないということは足りないところがあるということ」と、試合に出るために、その後の練習に励んできた。

■公式戦初スタメンで初アーチ

 この秋のリーグ戦も第1週、第2週とベンチを温めた。

 その時が来たのは第3週、9月7日(土)の山形大1戦目。6回裏に代打で出場した選手が退き、7回表、ショートの守備に就いた。春から公式戦のベンチに入り、19試合目。ようやく、デビューを果たした。

「自分が活躍して、というよりは、周りとの兼ね合いだと思います。自分は無難なプレーをするので(苦笑)、ミスもしないし、落ちもしない。でも、上がりもしない。ここまで残れても、試合には出られなかったので、やっと出られた、という感じでした」

 翌8日(日)は「2番・遊撃」でスターティングメンバーに名を連ねた。

 その1打席目だった。

 1回、無死一塁。右打席に入り、山形大の左腕と対峙した。カウント1-1から外角球を2球続けて一塁側にファウルし、投じられた5球目。直球にバットを振り抜いた。

 乾いた音が石巻市民球場に響いた。曇り空に打ち上がった白球に視線が集まる。滞空時間およそ5秒。着弾した先はレフトスタンドだった。先制2ラン。静かな球場は東日本国際大の歓声や拍手と、山形大の落胆の空気に包まれた。

「結構、完璧だったんですけど、(ホームランを)打ったことがないので、入るかな? と思っていました」

 大学3年の秋。公式戦初スタメンの第1打席で放った初本塁打。

「自分、守備もバッティングも両方、パッとしない選手なので」

 可もなければ、不可もない。

「だから、誰かがやらかしたり、怪我をしたりした時に出る選手なんです」

 チームの欠けている部分を補うから、「補欠」と書く。それこそ、立派な役割ではないか。不足を補い、穴埋めをする。大切なピースに違いはない。

「高校の監督、森下先生に言われていたんです。『お前は順番待ちの選手だ』って。お前を使いたい、とはならないけど、使いたい選手がやらかした時に出番が回ってくるから、それまで頑張ることが大事だぞ、って。森下先生が『俺に似ているんだ』って、自身に重ねて言ってくれて。それがあったから、頑張れたって感じです」

■「今にも起きてきそうな顔をしていました」

 長島が言う「森下先生」は、今年1月まで御殿場西高の監督を務めた森下知幸さん。浜松商の主将として、1978年のセンバツ大会で優勝し、社会人野球の選手を経て高校野球の指導者になった。浜松商、日大三島、常葉菊川(現常葉大菊川)を指揮。常葉菊川の監督として2007年のセンバツで優勝するなど、甲子園通算13勝(7敗)を挙げた。2016年からは御殿場西へ。ここで野球を教わったのが長島だ。

「森下先生、めっちゃいい人で!」と、声のトーンが上がる。

「(3年夏に)引退した後とかもよく喋ってくれて。お前が行く大学はレベルが高いけど、出られたらいいな、って。2年の新人戦でベンチに入れて、その時に連絡したら新人戦ですら喜んでくれたんです。『お前でも、入れたんか』みたいな感じで(笑)」

 電話の向こう側で恩師の声が弾んでいるのが分かった。

 この春、初めてリーグ戦でベンチに入れたが、喜びの声を聞くことはできなかった。今年の1月16日。森下さんは大動脈瘤破裂でこの世を去った。

 長島は東日本国際大・藤木豊監督に電話した。

「藤木監督、すぐに帰省させてくれました。森下先生の家族が御殿場西とか常葉菊川とか、教え子は来てくれた方が喜ぶから、家に来ていいって言ってくれて。森下先生、今にも起きてきそうな顔をしていました。1日目は先輩と行って、2日目は同級生と行って、自分、ほぼ毎日、森下先生の家に行っていたんです。みんなで泣きながら思い出話をして。通夜には1000人とか、めっちゃ来ていて、みんな、泣いてたっすね」

 恩師との別れ。長島は年末に授かった言葉を噛み締めていた。

■“順番待ち”と“やり切れ”で頑張れた

「やんなきゃなとは思っていたんですけど、そんなにすぐ、上手くなるわけでもないので。できるかな、という不安の方が大きかったんです。でも、やるしかないと思って、覚悟が決まりました。みんな、森下先生のことが大好きなので、年末、御殿場西に集まるんですよ。去年の年末、最後に言われた言葉がなんで、あれだったのか…」

 昨年末。同級生十数人で御殿場西のグラウンドを訪ねると、森下さんから「今年の成果と来年の抱負を言え」と指令が出た。一人ずつ、成果と抱負を語る。長島の順番が来た。

「今年は新人戦でベンチに入ることができ、来年が勝負なので、頑張ります」

 すると、森下さんは言った。

「お前、ちゃんとやり切らな、あかんぞ」

 胸に響いた。

「なんでそれだったのか、分からないんですけど。それが最後の言葉でした。『やり切れ』ってだけ、言われて。その言葉とか、高校の時に言われた“順番待ち”とか、それで大学で頑張れたっていうのはあります(笑)」

 しんみりした話を、自虐的に笑って締めた。

■周囲は大騒ぎも「誰っすか?」

 人は、出逢いによって命を運んでいく。教育者・哲学者の森信三(1896年―1992年)はこんな言葉を残している。

「人間は一生の間に会うべき人に必ず会わされる。それも一瞬早すぎもせず、遅すぎもしないときに」

 静岡県御殿場市で育った長島は中学時代、御殿場ボーイズでプレーしていた。高校はどうしようか、と思っていた時、誘ってくれたのが森下さんだったという。理由は、声が出ているから。

「『あいつ、声が出るからいい』って言ってくれたみたいなんです。有名な監督が声をかけてくれたから、行け! って言われて。でも、自分、森下先生のこと全然、知らなかったんです(苦笑)。誰っすか? って感じで。周りは『あの監督が褒めてくれたんだぞ』って、めっちゃ騒いでいました(笑)」

 今に続く道は、この時に始まった。

 高校で初めてベンチ入りしたのは2年夏。それは、世界的パンデミックで夏の甲子園がなくなり、独自大会として開催された大会で、通常よりも5人多い、25人までベンチに入れた。

「その、背番号23番で入りました」

 高校野球は残り1年。卒業後は就職しようと思っていた。

■進学を決意した涙のノック

 そんなある日のこと。学年が集められ、森下さんから「今、就職を考えているやつ、いるか」と聞かれた。3人が手を挙げた。そのうちの1人が長島だった。

「自分だけ、ブチ切れられました(笑)」

 姉と妹がいる3人きょうだいの真ん中。家族のことを考えて進学は希望していなかった。「お金のことがあるので、大学には行けません。野球は辞めます」と伝えた。

 だが、森下さんの思いは違ったようだ。その日のノック。ショートの位置に入ると、足を使っても追いつけない、捕れないような打球をひたすら打たれた。

「そんなやつとは野球、やれない、って。ふざけるな、って。お前とはやっていられない、とか言われて。自分、泣きながら、ノックを受けて(苦笑)」

 涙と汗と泥にまみれたノック。終わると、森下さんに言われた。

「もったいないぞ。親を本気にさせてみろ!」

 親を本気にさせる???

「そんな考え、なくて。そう言われて、家に帰ってから親にめちゃくちゃ真剣に『大学で野球をやりたい』と言いました。そしたら、『レギュラーを獲ったらいいよ』と言われて。そしたら、レギュラーを獲っちゃって、みたいな感じですね(笑)」

“順番待ち”と言われた選手が2年秋から1桁の背番号をもらい、スタメンを獲得した。親を本気にさせる――。それはきっと、本人の本気度も上がったに違いない。今となっては確かめようがないが、森下さんはそこを狙ったのではないだろうか。そう、想像したくなる。

■「亡くなっちゃったから、さらに尊いっすよね」

 進路は大学進学に決まった。長島は「どうせなら、強いところでやりたい」と希望し、御殿場西の先輩が進んでいた福島県いわき市にある東日本国際大の練習会に参加。「めっちゃいいチーム」と感じて決めた。森下さんからも「行ってこい」と背中を押された。だが、東日本国際大は現在も4学年合わせて部員が150人以上の大所帯。ベンチ入りどころか、Aチームに上がるのさえ、至難だ。そんな中、支えとなったのは森下さんの教え。

「“順番待ち”と“やり切れ”で頑張れました。高校で自分が“順番待ち”の選手だと理解できていなかったら、指導者に嫌われているのかなとか思ったり、諦めたりしていたと思うんです」

 出番が回ってくるまで頑張ることが大事なんだ。そして、最後までやり切ることが大事なんだ。そんな金言は遺言となり、長島の中で生きている。

「人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ」とは、アメリカの第37代大統領、リチャード・ニクソン(1913年―1994年)の言葉。中学生の時に見つけてくれて、大学まで道を示してくれた。長島の野球人生の半分は森下さんでできている。

「神様っす、森下先生。亡くなっちゃったから、さらに尊いっすよね、なんか。最近のことなのに、めっちゃ、昔話みたいになるっす…」

■危機感を口にし、リーグ戦2試合連続弾

 この話の発端は、公式戦でのベンチ入り19試合目にして、初めてスタメン出場を果たし、その試合の1打席目でいきなり放物線を描いたことだ。

「自分のことじゃないみたいっすね。打ったとか、嬉しいとかより、ここから頑張らないと違う選手が来るので、外れちゃいけないという気持ちの方が強いです。今日は、たまたま出られて、たまたま結果が出ただけ。あと二押しも三押しもしないと、レギュラーまでは遠いですから」

 満足することも、浮かれることもない。“順番待ち”をしている選手がいることを誰よりも知っているから。そんな危機感は早くも翌週の結果に出た。

 9月14日(土)の日大工学部との1戦目。この日も「2番・遊撃」でスタメン出場した長島は、初回に先制ソロをレフトスタンドに放り込んだ。2試合連続でのホームランだ。さらに、5回には内野安打で出塁し、6回には二塁打を放って好機を広げた。

 15日(日)の日大工学部2戦目は、1対1の8回に1死から三塁線を破る二塁打で出塁。その後、2死一、三塁の三塁走者となり、相手の暴投で決勝のホームを踏んだ。

 リーグ戦は今週末に最終の第5週が予定されている。現在、東日本国際大は首位。南東北リーグの優勝・準優勝校は10月に行われる明治神宮大会の東北地区代表決定戦に挑み、秋の全国切符を競う。

 学生野球はあと1年。目標は決まっている。

「やり切る…、やり切るしかないですよ!」

フリーライター

1987年3月7日生まれ。宮城県栗原市(旧若柳町)出身。大学卒業後、仙台市在住のフリーライターとなり、東北地方のベースボール型競技(野球・ソフトボール)を中心にスポーツを取材。専門誌やWebサイト、地域スポーツ誌などに寄稿している。中学、高校、大学とソフトボール部に所属。大学では2度のインカレ優勝を経験し、ベンチ外で日本一を目指す過程を体験したことが原点。大学3年から新聞部と兼部し、学生記者として取材経験も積んだ。ポジションは捕手。右投右打。

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