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【高校野球】選手、指導者として「あと一歩」だった甲子園で育成功労賞を受賞 東北生文大高・水沼武晴先生

高橋昌江フリーライター
今年度の育成功労賞を受賞した水沼武晴先生。現在は東北生文大高の副校長を務める

 宮城県の公立校と私立校で監督を務めた水沼武晴先生が今年度の「育成功労賞」を受賞し、今月15日に阪神甲子園球場で表彰を受けた。仙台商の選手として、その後は指導者として甲子園を目指したが届かず、今回の表彰で初めて甲子園の土を踏んだ。「私の周りで支えてくださった皆様方と、ただただ、子どもたちのお陰」と感謝する。現在はユニホームを脱ぎ、東北生活文化大高で副校長を務める。

■2代目監督を終え、現在は副校長

 東北生活文化大高の玄関ホールには、仙台七夕まつりの飾りが“プレーボール”の時を待っていた。

「去年はね、銀賞の1等だったんですよ。今年は、明日の朝、飾りに行くんです」

 水沼武晴先生は副校長として、生徒と教員による力作を誇らしげに紹介してくださった。吹き流しには筆文字の校名。もしや? と思った。水沼先生、教員になってからも教室に通い、書道は7段の腕前。これまで勤務した各校でも生徒たちの努力の証である賞状や卒業証書に揮毫してきた。

 水沼先生が筆を走らせた「東北生活文化大学高等学校」は、地元では略して「生文(せいぶん)」と呼ばれる私立校。長く三島学園女子高として歴史を重ねてきたため、県内では「三島」の方が馴染みある人が多いかもしれない。それでも、共学となったのは2003年で20年以上の時が流れる。

 硬式野球部の創部は2007年。水沼先生は2代目の監督として2014年から指揮した。2年前の夏でタクトを置いたが、その年から始めた寮の寮監として野球部員6人と共同生活を送っている。23時過ぎに就寝し、起きるのは4時。朝食作りから一日が始まる。少しでも身体が大きくなるように。少しでも野球が上手くなるように。そう願いながらーー。

■「子どもたちのお陰」今年度の育成功労賞を受賞

「私の賞じゃないと思っていますから。これまで、いろんな人にお世話になりましたもんね。本当にお世話になった。教職員、保護者、生徒。相手チーム、指導者、審判…。(石巻商では)震災もあったしね。もうとにかく、いろんな人にお世話になりましたから。私の周りで支えてくださった皆様方と、ただただ、子どもたちのお陰なんですよね。私は何もしていないもん。何もしていない。本当にいただいてよろしいのか、恥ずかしい気持ちですよ。この間もさ、みんなに謝ったの。『私の理不尽な指導に耐えてくれた君たちのお陰です』って、『ごめんな』って」

 高校野球には「育成功労賞」という、高校野球の発展や選手の育成に尽力した指導者に贈られる賞がある。今年度、宮城県から選出されたのが水沼先生だ。

2022年春、生文の監督としてシートノックを打つ水沼先生
2022年春、生文の監督としてシートノックを打つ水沼先生

 そのお祝いの席がいくつかあった。1つが1995年秋から2004年夏まで監督を務めた仙台商。教え子たちが集まる会だと聞いていたが、母校だけに先輩や後輩、同級生も顔をそろえる規模の大きな会になった。その時のこと。バツが悪そうに、ちょっと声をひそめる。

「厳しく指導した子とかもいるんですよ。『表情が悪い』とかって言って」

 その“厳しく指導した子”が目の前に来て、発した言葉は「先生、ありがとうございました」だった。深々と頭を下げる教え子にあっけに取られ、「どうした?」と訊ねる。

 要約すると、仕事の複数の取引先から「君の笑顔がいい」「君の笑顔を見ると元気が出る」などと褒められ、その仕事で独立に漕ぎ着けたという。相手にしているのはロボットではなく、生身の人間。教師、監督、誰かのそばに寄り添うということはストレートではなく、この話も“美談”として教えてくれたわけではない。熱き時代。胸に手を当てれば“理不尽”と感じる自身の指導がよみがえる。

「大変な思いをした子もいっぺげっともね(いると思うけどね)。その時も『土下座して謝るから、画像を撮って、今日、来ていないヤツらに送ってけろな』って言ったんですよ。みんな、ゲラゲラ笑っていたんですけど。そういう子、多いべなって。本当に申し訳なかったなって。でも、嬉しかったんですよ。なんかね、すごく幸せな気持ちでした」

 教えは生きていた。年月を経て、「申し訳ない」と感じていたところに加わった喜びと驚き。涙がこぼれた。

 この話を聞いて、そういえば、と思い出した。水沼先生が生文の監督に就任した2014年春、新たな出会いを果たした部員たちに最初に伝えたのも笑顔のことだった。

「笑顔の素敵な人には福があります。この子たちはいいものを持っていますが、ミスをしたり打てなかったりすると笑顔が消えてしまうんです」

 1点ビハインドの試合中、自身の和らいだ顔を見せながら、「君たちはなぜ、そんなに暗い表情をしているんだ」と言った。笑顔になった選手たちは力みがなくなったのだろう。その直後に追いつき、「ほらね」と言った。そのチームは前監督のもとで蓄えた力に水沼先生の思考も加え、創部8年目で初めてとなる春の県大会出場を果たし、白星も挙げたのだった。

■後輩たちの甲子園出場で教員の道へ

「小学生、中学生の頃から甲子園を夢見てきてね。教員になってもずっと狙っていたけど、一度も行けなかった。このような形で甲子園の土の上に立てるのか、甲子園球場に立てるのかって、ちょっと不思議な感じがしますけど」

 1962年、宮城県塩釜市生まれ。高校野球の舞台として選んだのは、1967年の春夏と69年夏に甲子園出場がある仙台商。東北を追うように仙台育英が台頭してきた頃に公立の雄として存在感を示していた。東北も仙台育英も、仙台商も1学年に100人が入部し、最終的に十数人が残る時代に1年秋からエースナンバーを背負った。常に行く手を阻んだのは仙台育英や東北。高校3年の夏もそうだった。

 雨が多かったという1980年の宮城大会。仙台商は決勝に進出した。相手は東北。場所は宮城の野球の聖地である宮城球場(現楽天モバイルパーク宮城)。先発した水沼先生は初回に5点を失ったが、先攻の仙台商は、のちにプロ入りする相手先発の中条善伸投手から小刻みに得点し、4回表に追いついた。

 しかし、試合が始まって降り出した雨が強まり、その途中でノーゲームになった。翌日も天気は回復せず、再試合が行われたのは2日後。この日も水沼先生は先発し、中条投手と投げ合った。4回まで1対1と互角の戦いを繰り広げたが、5回に勝ち越しを許し、1対6で夢破れた。

 卒業後は日本石油に就職したが、1983年夏に後輩たちが14年ぶりとなる甲子園出場を果たす。2対1で勝利した比叡山(滋賀)との初戦は現地で応援した。甲子園に対する思いが再び、沸々と湧き上がった。東北学院大の夜間部に入学したのが24歳の時。商業科の教員免許を取得し、28歳で宮城県の教員となった。

2022年春、松島運動公園野球場にて。初任地は松島だった
2022年春、松島運動公園野球場にて。初任地は松島だった

 初任校は松島。現在は校舎から道路を挟んだ向かい側にグラウンドがあるが、当時は離れた場所にあり、荒れてもいた。学校で使えるスペースもわずかで、部員のモチベーションも自身が理想とする野球部とは真逆だった。練習開始に選手がいない。1人が遅れて来たらグラウンドを10周走ると自らに課し、「100周くらい走った時もあった」。整備も一人で行う、そんな姿勢は徐々に生徒たちの心を動かした。

 部活動の形を成した松島はその後、部員たちと引き継いだ指導者たちによって力をつけていった。1994年夏には宮城大会2回戦で仙台商と対戦。延長12回、0対1でサヨナラ負けと惜敗した。この時、仙台商の副部長だったのが水沼先生。1992年に母校へ異動していた。

(松島は2014年秋に東北大会初出場を果たし、翌年も出場。2年連続で選抜大会の21世紀枠県推薦校となり、2015年は東北地区の推薦校まで残ったが、選出はされなかった)

■仙台商、石巻商で戦績上げるも「たどりつかないんですよ」

 母校の監督に就任したのは1995年秋。仙台商はやや低迷していたが、その3年前から副部長、コーチとして指導し、宮城大会で12年ぶりの決勝進出(仙台育英に6対7)を後押しした直後だった。監督として初めての夏となった1996年は2年連続で宮城大会決勝を戦ったが、2対8でまたもや仙台育英に敗れた。

 1998年春には12年ぶりの県大会優勝に導いた。春の東北大会出場は1998、99、2003、04年の4回。2000年には28年ぶりに秋の東北大会出場を果たし(県3位)、翌春から設けられた選抜大会の21世紀枠の県推薦校第1号となった。

 甲子園が近づいたと感じた時も、見えないほど遠く感じた時もあった。伝統ある公立校としての意地や誇りを胸に勝ったり、負けたり。黒星を喫した多くは仙台育英や東北だった。2004年夏、宮城大会準々決勝で敗れ、母校のユニホームを脱いだ。

2021年6月、仙台商の創部100年記念試合にて。水沼監督(右)は2004年夏で母校・仙台商の監督を退任。下原俊介監督(左)にバトンを託した。学法石川・佐々木監督(中)とは仙台育英監督時に何度も対戦
2021年6月、仙台商の創部100年記念試合にて。水沼監督(右)は2004年夏で母校・仙台商の監督を退任。下原俊介監督(左)にバトンを託した。学法石川・佐々木監督(中)とは仙台育英監督時に何度も対戦

 翌年から2年間の大河原商勤務を経て、2007年に石巻商へ異動した。2009年秋の県大会。準決勝を突破し、初の東北大会出場に導いた(決勝では古川学園に敗戦)。2011年の秋には県大会準々決勝で仙台育英を3対2で下した。しかし、準決勝で石巻工に1対3で敗戦。3位決定戦は中盤に突き放されて力尽きた。その2年後の秋。県大会の準決勝で仙台育英と対戦。0対3からジワジワと追い上げて9回に追いついたが、延長11回、サヨナラ負け。それでも今度は3位決定戦を完封で制し、2度目となる東北大会に出場した。

 選抜大会につながる秋の東北大会を戦った2回とも21世紀枠の県推薦校となった。しかし、2010年は東北大会初戦で敗れた山形中央が選抜大会に出場。前年の選抜大会に石巻工が出場していた2013年は、いわき海星(福島)が選ばれた。

 仙台商、石巻商で戦績を上げた。何年ぶりという復活劇や初物は多かったが、「でも、たどりつかないんですよ」とポツリ。甲子園の切符はつかめなかった。

■“ラストゲーム”は時代に翻弄され…

 2014年3月、52歳の年で早期退職した。いち商業科の教員として着任したのが生文だった。野球の指導から離れる予定だったが、硬式野球部の監督が退任していた。長年の公立校での指導力を学校が放っておくはずがない。断ったが、最後は「監督不在のままでは生徒がかわいそう」と腹を決めた。慌ただしく就任し、わずか3回の練習で1週間後の公式戦に臨んだ。選手の顔と名前はまだ一致していなかった。

 生文の夏は、創部2年目の2008年に初勝利を挙げ、2009年には2勝していたが、その後は初戦敗退が続いていた。春、秋は地区予選で敗れ、県大会出場もなかった。だが、先に書いたように就任1年目の春、県大会に初出場。夏は5年ぶりに初戦を突破した。

 2017年は宮城大会4回戦で東北に0対1で惜敗。2018、19年と2年連続で夏8強と生文でもチーム力を上げていった。

生文のグラウンド。就任時はなかったスタンドもできるなど、環境が少しずつ変化した。この日は東日本大震災後から支援してきてくださった監督のチームと練習試合。写真は相手校と一緒にキャッチボール中のところ
生文のグラウンド。就任時はなかったスタンドもできるなど、環境が少しずつ変化した。この日は東日本大震災後から支援してきてくださった監督のチームと練習試合。写真は相手校と一緒にキャッチボール中のところ

 しかし、2020年、教頭になると、コロナ禍もあり、練習に顔を出せる日が減っていった。還暦を迎えた2022年、仙台商時代の教え子である米沢中央(山形)・伊藤久志監督を呼び、その夏で監督を引き継いだ。

 最後の夏は1回戦で小牛田農林に10対0の5回コールド勝ち。2回戦で亘理・伊具・大河原商の連合チームに延長10回、2対1でサヨナラ勝ちした。3回戦の相手は、高校時代から何度も勝負してきた東北だった。

 だが、その対戦は叶わなかった。生文でコロナの感染者が増えたため、辞退を決断し、不戦敗となったのだ。“ラストゲーム”は時代に翻弄される形となった。それでも、その時の電話口の水沼先生はいつものように明るかった。

「勝てる雰囲気が出てきていただけに残念! 東北とはさ、力の差はあるけど、高校生って何があるかわからないから。技術を気持ちで超えられる、そのレベルまで達して来たかなという感じはあったからね。残念!」

 この時のチームは秋の地区予選で東北と仙台商に7回コールド負けを喫して県大会出場を逃していた。そのチームが春は地区予選を勝ち抜いて県大会を経験し、夏は2回戦でサヨナラ勝ちと勢いづいて東北に挑もうとしていた。その成長が嬉しかったのだ。

「やっぱりさ、真面目にやった人、一生懸命にやった人が報われる、そういう時代であってほしいですしね。高校野球をやっている人って、誰とでも笑顔で明るく話ができたり、好感を持てたりする人間じゃない。私はそういう人間になってほしいと思ってやってきたし、野球も勝ちたいけど、『生文っていいよね』とか『仙商(せんしょう)、いいね』『石商(せきしょう)、いいね』と言っていただけるような指導を目指して来たので。要するに、人間性ですよ」

 そして、知り合いの住職から「謙虚、感謝、笑顔」について話してもらった時のことを楽しそうに教えてくれるのだった。

「全然ね、もう1年やりたいとか、もう1回、甲子園を目指したいとか、そういう気持ちにはなっていないんですよ。すっきりしているというか。(2回戦で)選手はうちらしいゲームをしてくれたと思いますしね。元気があって、高校野球ってこうだよ、ということを示してくれたゲームだったんじゃないかな、と。私は満足しています。あと一歩がいっぱいあったんですけど、なかなか乗り越えられないのが私の人生だなって思いながら(苦笑)、でも、幸せですよ」

■東北との「3回戦」、そして夢破れたマウンドで160キロ!?

 東北との3回戦が行われる予定だった7月19日から42日後の8月30日。“ラストゲーム”の続きがあった。

 東北も生文に不戦勝となった後、コロナの感染が拡大。7月23日の準々決勝・聖和学園戦はベンチ入りメンバーを12人も入れ替えることになり、1対13の7回コールドで敗れていた。そこで、両校の校長らが話し合い、東北のグラウンドで「3回戦」を行うことになったのだ。

 天気は、雨だった。

 水沼先生が仙台商のエースだった3年夏の宮城大会決勝の相手は東北。雨でノーゲームとなり、再試合で敗れた。

 42年後。場所も、ユニホームも違えど、ぬかるむグラウンドで18歳が泥だらけになって躍動。2者連続本塁打が飛び出すなどした生文が6対5で勝利した。非公式戦だが、東北に敗れて高校野球を終えた選手が、東北に勝って高校野球の監督を卒業した。

2022年夏、宮城大会3回戦は不戦敗となったが、42日後に東北とのゲームが実現した
2022年夏、宮城大会3回戦は不戦敗となったが、42日後に東北とのゲームが実現した

生文は東北に6対5で勝利。両校とも、ぬかるむグラウンドで戦い切った
生文は東北に6対5で勝利。両校とも、ぬかるむグラウンドで戦い切った

試合後、選手たちから花束などが贈られた
試合後、選手たちから花束などが贈られた

 今年の7月6日。水沼先生の姿は楽天モバイルパーク宮城のマウンドにあった。ネーミングライツでそうなっているが、投手として夢破れた宮城球場のマウンドに立ち、育成功労賞の受賞者として開幕戦で始球式を務めた。

 左打席に入ったのは、生文の監督のバトンを渡した仙台商時代の教え子である伊藤監督。キャッチャーミットを構えた生文の佐藤光也部長は石巻商時代の教え子だ。2012年の主将で、野球どころではなかった東日本大震災の大混乱の中で高校野球をやり抜いた生徒だった。水沼先生が左手にはめていたグラブと履いていたシューズは、その石巻商時代の教え子たちからのプレゼント。グラブの刺繍は「人は財産」だ。

 球審がプレーをかけて投じた一球は「ズドン」と、ミットに収まった。その球筋に球場がどよめいた。受けた佐藤部長も、バットを振った伊藤監督も目を丸くした。球速表示は「97km」。

「160キロは出したいなって気持ちでいったんですよ。97キロしか出なかったけど、そんなものなのかな。本当に97キロしか出ていなかったのか。ショックだったんですよ」

 真顔でそんなことを言うあたりが、高校野球と真剣に向き合ってきた水沼先生らしい。

石巻商の教え子たちから贈られた記念グラブ。寮のダイニングキッチンにしばらく飾っていたため、撮影は寮にて。お盆で自宅に戻った時に持ち帰った
石巻商の教え子たちから贈られた記念グラブ。寮のダイニングキッチンにしばらく飾っていたため、撮影は寮にて。お盆で自宅に戻った時に持ち帰った

■仙台育英に進んだ息子とのノック

 始球式で球場に入ると、スタンドからは「じいじ、がんばれ! じいじ、がんばれ〜」と孫のかわいい声援が飛んだ。東京に住む次男・航平さんが子どもたちを連れて、サプライズで帰省していた。野球をしていた航平さんは自ら希望して仙台育英に進学。プレーヤーとしてもレギュラーになれる実力があったが、グラウンドマネージャー(学生コーチ)となり、当時の佐々木順一朗監督(現学法石川監督)の右腕としてチーム作りをした。

 同級生でプロ入りしたのは中日・上林誠知、阪神・馬場皐輔と熊谷敬宥。大学進学後、主将や副主将など、チームリーダーとなった部員が多く、2012年の明治神宮大会で初優勝、春夏の甲子園にも出場した代だ。個性も強かったそのチームの練習を取り仕切り、公式戦ではノッカーとしてシートノックを打ち、記録員としてベンチ入りした。

 2012年秋の県大会準決勝では、水沼先生が石巻商の監督として、航平さんが仙台育英のノッカーとしてノックを打ちあった。「本当にね、幸せな時だったんですよ、あの時」。石巻商に延長11回、4対3でサヨナラ勝ちした仙台育英は決勝で東北を破り、6年ぶりに優勝。東北大会と神宮も制した。

 航平さんが甲子園でノックを打つ姿、記録員としてベンチで戦う姿は春夏と1回ずつ、甲子園で見た。仙台育英ベンチと反対側の内野席で、相手ベンチの上に座った。息子の姿はもちろん、幾度も対戦してきた佐々木監督の姿も目に焼き付けるために。

石巻市民球場で行われた2013年の宮城大会の開会式。仙台育英の3年生だった航平さん(中)はプラカードを持って入場行進し、誘導する係だった水沼先生(右、当時は石巻商監督)と目が合う。左は中日・上林
石巻市民球場で行われた2013年の宮城大会の開会式。仙台育英の3年生だった航平さん(中)はプラカードを持って入場行進し、誘導する係だった水沼先生(右、当時は石巻商監督)と目が合う。左は中日・上林

水沼先生が叶えられなかった甲子園出場を果たし、仙台育英のグラウンドマネージャーとして高校野球をやり切った航平さん(前列左から2人目)。写真は2013年7月、東北との送別試合にて
水沼先生が叶えられなかった甲子園出場を果たし、仙台育英のグラウンドマネージャーとして高校野球をやり切った航平さん(前列左から2人目)。写真は2013年7月、東北との送別試合にて

■甲子園の土を踏んで

 選手として、指導者として目指し続けた夢舞台。息子も踏んだ甲子園の土を8月15日、踏み締めた。生文のユニホームを着て、石巻商の教え子たちから贈られたシューズを履いて。

「甲子園の土はフワフワしていて、今まで思い描いていた通りのグラウンドでしたね。気持ちよかったですよ! 暑いけどね、爽快な感じ。そしてね、もう1回、やりたいなっていう思いを掻き立てるような、球場でした(笑)。たどり着いている人にはちゃんちゃらおかしいと思うんですけど、たどり着いてない人にとってはね。だから、みんな、人生をかけて目指すんだな、って感じましたよ」

 甲子園は、いつまでも野球人のロマンだ。

(写真はすべて筆者撮影)

フリーライター

1987年3月7日生まれ。宮城県栗原市(旧若柳町)出身。大学卒業後、仙台市在住のフリーライターとなり、東北地方のベースボール型競技(野球・ソフトボール)を中心にスポーツを取材。専門誌やWebサイト、地域スポーツ誌などに寄稿している。中学、高校、大学とソフトボール部に所属。大学では2度のインカレ優勝を経験し、ベンチ外で日本一を目指す過程を体験したことが原点。大学3年から新聞部と兼部し、学生記者として取材経験も積んだ。ポジションは捕手。右投右打。

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