完全スルーされた織田信長の葬儀。羽柴秀吉が勝手に取り仕切ったのではない
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の葬儀が完全スルーだった。葬儀には織田一族が誰も参列しなかったので、その全容を検討することにしよう。
天正10年(1582)に比定される10月18日付の羽柴秀吉書状写には、信長の葬儀に関する経緯が書かれている(「金井文書」)。秀吉は信長の葬儀について、信雄、信孝の両人に次(秀勝:秀吉の養子で信長の四男)を通して報告したが、返事がなかったという。
信雄、信孝の2人から返事もないうえに、宿老衆(柴田勝家など)からも葬儀の件で動きはなかった。このままでは、天下の外聞(世間の評判)がいかがかと思い、秀吉は小身ではありながらも葬儀を主宰したというのである。誰も信長の葬儀を行おうとしないので、秀吉がやらざるを得なかったのだ。
秀吉は、足利義輝の葬儀の際、大徳寺の楽人の10人分の手当が銀子15枚(米に換算すると30石分)と聞いて、銀子2千枚で25人の楽人を参列させてほしいと要望した。秀吉は信長の葬儀に際して、破格の条件を示したのである(その後、手当は50石になった)。
同年10月9日、丹羽長秀の名代として、3名が上洛した。うち1人は、家臣の青山助兵衛尉だった(『兼見卿記』)。同年10月14日、信雄と信孝が上洛して葬儀を中止させるとの噂が流れたが、それは実現しなかった(『晴豊公記』)。『蓮成院記録』によると、滝川一益、丹羽長秀、柴田勝家、信孝の名代・池田恒興は上洛したが、抑留されたという。つまり、葬儀には参加できなかったのだ。
こうして信長の葬儀は、同年10月15日に執り行われた。棺には信長の木像が入れられた。信長の遺骸が発見されなかったからだろう。棺の前を歩いたのは、池田輝政(恒興の子)である。輝政が選ばれた理由は、恒興が出席できなかった代理であるとともに、恒興の母が信長の乳母だったからだという(『晴豊公記』)。
棺のあとを歩いたのは、次(秀勝:秀吉の養子で信長の四男)だった。実質的な喪主である。秀吉は、信長の愛刀「不動国行」を持って参列した。結局、主だった信長の関係者で参列したのは、丹羽長秀の名代が3人、そして細川藤孝くらいだったという(『兼見卿記』)。信長という天下人にしては、実に寂しい葬儀だった。
つまり、信長の葬儀は秀吉がしゃしゃり出てきて勝手に行ったのではなく、三法師、信雄、信孝の織田一門が執り行わなかったので、止むを得ず主催せざるを得なかったというのが実情だった。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)