本能寺の変後、家康に仕えた武田氏旧臣の末裔たち
本能寺の変で織田信長が討たれたことにより、領主が不在になった甲斐・信濃には多くの国衆達が割拠していた。
「どうする家康」でも、秀吉と対峙するよりは無主となった甲斐・信濃の制圧を優先する様がえがかれた。こうした国衆達の代表がドラマにも登場する真田一族で、このあと家康と厳しく対立する。しかし、それ以外にも様々な国衆達がおり、家康に従って江戸時代には旗本となったものも多い。そして、末裔からは有名な人物も生まれている。
5代将軍を補佐した柳沢吉保
旗本となった旧武田氏家臣のうち、江戸時代最も栄えたのが柳沢氏である。
柳沢氏は武田氏の一族で名字の地は甲斐国巨摩郡柳沢(現在の山梨県北杜市武川町柳沢)。ここは武川と呼ばれる地域で、武田氏に従って武川衆という家臣団に属していた。武田氏が滅亡すると徳川家康に仕え、江戸時代には旗本となっている。
柳沢氏が活躍するのは5代将軍綱吉の時代。吉保は徳川綱吉に仕えて頭角を著わし、元禄元年(1688)には1万石を与えられて側用人となると、同7年には武蔵川越藩7万2000石に入封。その後老中となって宝永元年(1704)には甲斐府中15万石の大名となり、綱吉のもとで文治政治を推し進めた。
一代で成り上がると没後失脚することも多いが、柳沢家は吉保没後の享保9年(1724)には大和郡山15万1200石に転じ、幕末まで続いた。
JR駒込駅近くにある六義園は吉保自らが設計した庭園として知られる。また、奈良教育大学学長をつとめた物理学者の柳沢保徳氏は郡山藩主の直系の子孫である。
維新の元勲板垣退助
意外なところでは、明治維新で活躍した板垣退助も武田家旧臣の末裔と伝えられている。
板垣氏も武田氏の庶流で、名字の地は甲斐国山梨郡板垣(現在の山梨県甲府市)。板垣氏の祖兼信は源範頼に従って功をあげ、駿河国志駄郡大津(現在の静岡県島田市大津通)の地頭となったが、のち隠岐に流された。以後は於曽郷を本拠として武田氏に仕えたというが、詳細はよくわからない。
その後、武田氏重臣に板垣氏が登場する。前記板垣氏の末裔だとみられるが系譜関係ははっきりしない。室町時代の大永年間(1521~28)に武田信虎に仕えた板垣信泰がおり、その子とみられる信方(形)は信虎・信玄の重臣として活躍した。
信方は天文17年(1548)村上義清との上田原合戦で討死。あとを継いだ信憲は諏訪城代となったが武田信玄によって誅され、於曽氏出身の信安が板垣氏の名跡を継いで武田勝頼に仕えた。
この子孫は江戸時代は加賀藩士となっている。
一方、信憲の長男正信は、武田氏滅亡後掛川に逃れて乾備後に養われ、乾氏と改称。のち山内一豊に仕えて江戸時代は土佐藩士となった。そして、幕末の退助の時に先祖の名字「板垣」に戻し、明治時代には政治家として活躍した。年配の方にはかつての百円札の立派な髭を生やした肖像画でもおなじみである。