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西軍の決起には石田三成の才覚が必要だった。その当たり前の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が諸将を糾合し、西軍が挙兵する際の中心的な役割を果たしていた。西軍の決起には、三成の才覚が必要だった。その理由について考えることにしよう。

 三成は慶長4年(1599)閏3月の七将による訴訟事件後、徳川家康による仲裁もあって、佐和山城(滋賀県彦根市)へ引退して家督を子の重家に譲った。重家は大坂城への出仕を認められたので、石田家は改易されることなく存続した。

 三成は引退しても、家康との良好な関係を築いた。子の重家の出仕が認められたこともあるが、家康に大坂の邸宅を宿所として提供したり、家康からの加賀への出陣要請(前田利長征伐)にも応じている。それは、家を守るためであり、家康の仲裁に遺恨がなかったと考えるべきだろう。

 ただし、一方で来るべき日に備えて、反家康の思いを抱いていた毛利氏らと連絡を取り合っていた可能性はある。毛利氏は、家康の台頭に強い危機感を募らせていた。

 慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)により「内府ちかひの条々」が発せられたが、そこに三成の名前はない。しかし、実質的には、この時点で三成は復帰し、「四奉行」の一人としてカムバックしたとみてよいだろう。

 以後、「二大老四奉行」が主導して輝元を擁立し、西軍は東軍を率いる家康に戦いを挑んだのである。二大老のもう一人は、豊臣秀吉に引き立てられた宇喜多秀家である。

 ではなぜ、三成の政界復帰が必要だったのか。それは、家康に対抗するには、三成の高い才覚が必要だったからである。輝元は家康に対抗心を燃やしていたが、単独ではままならない状況があった。五奉行だった三成の人脈も重要で、三奉行や吉継らを説得することは、三成以外では成し得なかった。

 さらに、三成が途中で引退せざるを得なくなったとはいえ、それまで三成が反家康の急先鋒だった点も大きいといえよう。三成は輝元と結託することで、その真価を発揮したのではないだろうか。三成の存在なくして、「内府ちかひの条々」が発せられることはなかったに違いない。

 同年7月28日、三成は鉄砲の産地として知られる近江国友村(滋賀県長浜市)に判物を発給し、新たに鉄砲を吹き替えることを禁止した(「国友助太夫家文書」)。

 これは、国友の鉄砲を「公儀」、つまり豊臣家のためだけに供給することを、暗に命じたものと考えられる。こうした事例も、三成の復権を示すものである。

 その後、三成は大坂から佐和山へと帰還し、家康との対決に備えて出陣準備を行った。三成は兵を召し抱えるべく、これまで蓄えていた金銀を惜しみなく使ったため、ほとんど底をついたといわれている。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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