徳川家康が豊臣秀吉への臣従後、与えられた驚くべき役割
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が豊臣秀吉との面会が実現した。家康は秀吉に臣従を誓ったが、それは秀吉の関東支配の尖兵になることでもあった。その点を詳しく考えてみよう。
天正14年(1586)10月、家康は大政所が岡崎(愛知県岡崎市)に到着したのを見届けると、ただちに上洛の途についた。家康は約6万の兵を率いていたというが、これはかなり誇張があると思われる。
10月26日、家康は約3千の兵を率いて大坂に入ると、秀吉の弟の秀長の屋敷を宿所とした。秀吉と大坂城で面会するのは、翌27日の予定だった。しかし、ここで予想外のことがあった。
26日の夜、秀吉が家康の宿所を突然訪れた。秀吉は家康の手を取って奥の座敷に招くと、互いの昵懇の関係を確認したという。会話の内容は不明であるが、慎重かつ「人たらし」の秀吉は、念には念を入れたのだろう。
その後、酒宴になると、驚くことに秀吉が先に家康の盃に酒を注いだ。秀吉は、あえて下手に出ることで、家康を懐柔しようとしたのである。秀吉の見事な演出だった。
翌27日、大坂城を訪れた家康は、秀吉に臣従を誓った。互いに進物を交換すると、秀吉は在京料として、近江守山(滋賀県守山市)に3万石を与えた。在京料とは、家康が上方での滞在費用を賄うための所領である。秀吉の心憎いばかりの配慮だった。
2人はこうして昵懇の間柄となり、家康は「何事も関白(=秀吉)次第」と従う姿勢を見せたが、なお両者の関係は対等の要素を残していたという。
家康の上洛の実現は、秀吉も大いに苦労した。まず、妹の朝日(旭)姫を妻として送り込み、さらに疑われないよう母の大政所も送り込んだ。つまり、家康はほかの大名とは違って、別格な存在だったといえよう。
とはいえ、秀吉がここまで家康に配慮したのは、以後の計画があったからだった。秀吉は家康と面談した際、「関東の儀を任せる」と依頼していた。当時、関東で威勢を誇っていたのは北条氏政・氏直で、関東の諸領主と激しい抗争を繰り広げていた。
秀吉は政策基調の惣無事(私戦の禁止)を推し進めるため、家康を利用しようとしていた。天正11年(1583)、家康の娘の督姫は氏直に嫁いでいたので、そのことも考慮していたであろう。
家康に期待した役割を具体的に言えば、北条氏を秀吉に臣従させる手助けだった。それは、家康と同じく、北条氏政・氏直父子の上洛を実現することである。
同年11月、家康は秀長と同じく、正三位中納言に叙位任官された。こうして家康は、豊臣政権に組み込まれていったのである。