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明智光秀は織田信長に自分の母を見殺しにされたので、凶行に及んだのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
坂本城址公園の明智光秀像。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、ついに織田信長が本能寺で自害した。明智光秀が信長を討ったのは、自分の母が信長に見殺しにされたからだというが、それが事実なのか考えてみよう。

 天正6年(1578)3月以降、光秀は八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻囲し、本格的に兵糧攻めを行った。約1年3ヵ月後、城主の波多野秀治は降参し、戦いは終わった。その結果、天正7年(1579)6月2日、秀治ら三兄弟は安土城(滋賀県近江八幡市)下の浄巌院慈恩寺で磔刑に処されたのである(『信長公記』)。

 光秀が信長に恨みを抱くことになった、有名な逸話がある(『総見記』など)。戦いの終盤、光秀は愛宕山大善寺(京都市右京区)らを介して、波多野氏に降伏すれば丹波一国を安堵し、家の存続を保証する条件で和睦をしようとした。

 しかし、波多野氏は光秀を疑って拒否した。そこで、光秀は自分の母を人質とすることで、波多野氏を降伏させた。これにより、波多野氏は光秀を信用したのだ。同年5月28日に和平が結ばれ、光秀は母を八上城に差し出した。

 同年6月2日、秀治らが光秀の城へやってくると、光秀は秀治らを捕らえた。秀治は安土城へ連行される途中で怪我で亡くなり、弟の秀尚は安土城で死んだ。それを聞いた八上城の残党は逆上し、光秀の母を報復措置として磔刑に処したのである。

 一般的には、信長が波多野氏を助けると約束したのに、殺してしまったので、八上城の残党が怒り狂い、人質だった光秀の母を殺したといわれている。それゆえ、光秀は約束を破った信長を恨んだというが、実際はそのように書かれていない。

 いずれにしても、『信長公記』によると、光秀が八上城攻撃を有利に進めていたのは明らかである。光秀の書状にも、八上城が落城目前だったことが記されている(「下条文書」など)。戦いで優位に立つ光秀が、波多野氏に和睦を持ち掛け、母を人質として差し出したことは矛盾する。

 遠山信春『総見記』は、本能寺の変から100年ほど経た貞享2年(1685)頃に成立したという。内容は、史料の質が劣る小瀬甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したもので、脚色や創作が随所に加えられている。

 史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。それゆえ同書は、信用に値するものではないと評価されているので、歴史史料として用いるのは適切ではない。

 結論を言えば、有利に戦いを進めていた光秀が、波多野氏に和睦を求め、母を人質して差し出すなどありえない。『総見記』などの記述はまったくの創作であり、史実として認めがたいのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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