伊達政宗の代名詞となった「伊達者」が使われるようになったのは、文禄の役がきっかけだった
人気者のキャッチフレーズというのは昔からあるが、「伊達者」もその一つだろう。伊達政宗の代名詞となった「伊達者」が使われるようになったのは、文禄の役の頃からといわれているので、紹介することにしよう。
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天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼすと、次にターゲットしたのが中国、朝鮮だった。秀吉は着々と準備を進めると、文禄元年(1592)に計画を実行へと移したのである。
伊達政宗は秀吉の要請もあり、朝鮮出兵への出陣を余儀なくされた。同年1月、政宗は岩出山(宮城県大崎市)を出発すると、取り急ぎ秀吉と面会すべく、伏見(京都市伏見区)を目指したのである。
無事に入京を果たした政宗は、京都市民から意外な形で歓待されることになった。政宗の率いた軍勢は、約3千人だったといわれている。むろん、ほかにも大名が軍勢を率いていたが、注目度は俄然違っていた。
というのも、上洛途上の政宗が率いる軍勢は、装束が非常に絢爛豪華なものだったといわれている。そのことは、たちまち上洛の道中で人々の大変な噂となった。
政宗の軍勢が通過する際、それまで静かに見守っていた京都の人々は、軍装のあまりのすばらしさに歓声を上げたという。それほど、政宗の率いる軍勢の軍装は、見事で絢爛豪華だったのである。
このとき以来、派手な着こなしや装いをする人を意味する言葉として、「伊達者」が用いられるようになったといわれている。そして、「伊達者」は伊達政宗の代名詞にもなったのである。
京都での滞在を終えた政宗は、そのまま朝鮮出兵の前線基地である名護屋城(佐賀県唐津市)に向った。政宗が渡海したのは、翌年3月のことである。戦闘開始時において、日本軍は快進撃を続けたが、政宗の活躍も大ききかった。
その間、政宗は加藤清正とともに朝鮮の2王子を捕虜として連行し、また陣中において謡曲「西行桜」を書写するなど、数多くの記録が残っている。政宗が日本軍の中核として活躍したことは、疑いないとだろう。
しかし、朝鮮軍の抵抗が激しくなると、いったん両者は和睦を結んだ。やがて、和睦が破談になると、再び秀吉は朝鮮出兵を命じたが(慶長の役)、政宗は、慶長の役に出陣していない。