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降伏文書の調印を2日遅らせた台風

饒村曜気象予報士
昭和20年8月1日から9月2日までの東京の気象

日本政府は、昭和20年8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告し、翌15日に昭和天皇による玉音放送により、日本の降伏が国民に公表となっています。このため、8月15日が「終戦の日」となっていますが、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書の調印はその半月+2日後でした。

日本の希望を実現させた台風

日本のポツダム宣言受諾を受け、連合軍は8月26日に関東平野の戦略的重要基地である厚木基地へ進駐、8月31日に日本が降伏文書に調印というスケジュールを考えていました。しかし、戦後の大混乱の中で、厚木基地で抗戦を主張している戦闘機部隊の説得、基地周辺の日本軍の撤退、アメリカ先遣隊の受け入れ準備など、とても26日までには片付かない大問題が山積みしていました。このため、日本側は準備不足の不手際から、万一事故があればとり返しがつかないことになると延期を申しいれましたが、「神風特別攻撃隊の国である日本は、時間かせぎをして反抗の準備をしているのではないか」との疑心暗記から、連合軍は、8月26日に厚木進駐という方針を崩しませんでした。

天気予報が復活した8月22日は、関東地方に小型の台風が上陸し、暴風雨になっていますが、敗戦と聞かされて呆然としていた人々を冷静にさせる効果があったと言われています。暴風雨が過ぎ去ると、徹底抗戦を主張していた人々も帰順しています。加えて、22日に沖縄本島の南海上にあった大型の台風がゆっくり北上し、26日には四国の南海上に達したため、スケジュールは全て2日延期となっています。この2日間は貴重で、8月28日にテンチ大佐以下約150人の第1次先遣隊が沖縄基地から厚木基地に飛来したときには、進駐軍の受け入れ準備が一応終わり、日本国民も平穏に連合軍進駐を受けとめるようになっていました。連合軍最高司令官マッカーサー元帥がサングラスをかけ、コーンパイプをくゆらせてゆっくり厚木に降りてきたのは、8月31日のことでした。そして、降伏文書の調印が、9月2日,東京湾沖に停泊した戦艦・ミズーリでおこなわれ、ここに太平洋戦争は完全に終結しました。もし2つの台風がなく、予定どおりに大混乱の8月26日に進駐し、万一の事故があれば、お互いの不信感から日本の戦後は変わっていたかもしれず、平和理に日本の占領政策を始まらせたという意味では、日本を救った神風であったのかもしれません。

戦艦・ミズーリは沖縄戦で台風被害にあっていた

日本の降伏文書調印式は、9月2日に東京湾に停泊する戦艦・ミズーリの甲板上で行われました(日本の代表団は政府全権の重光葵外務大臣と大本営全権の梅津美治郎参謀総長)。ミズーリの甲板には、真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた48星の星条旗(アラスカとハワイを除く48州)と、1853年に江戸湾に入ったペリー艦隊が掲げていた31星の星条旗(当時は31州)が飾られていました。終戦にあたっての、アメリカの意志が感じられる装飾と思います。

図 ペリー艦隊が掲げていた31星の星条旗
図 ペリー艦隊が掲げていた31星の星条旗

戦艦・ミズーリが3ヶ月前の沖縄戦で台風に巻き込まれて損傷を受け、ハワイで修理後に日本に寄港したことは知られていません。実は、戦艦・ミズーリだけでなく、アメリカ軍の主力艦隊が沖縄の南東海上で台風に巻き込まれています。沈没した艦船はいなかったのですが、戦艦・ピッツバークの艦首が切断されるなど36隻もの艦船が台風被害にあっています。昭和20年6月5日のことで、沖縄本島南部では沖縄守備隊とアメリカ軍との死闘が続いていました。アメリカ軍が台風によって大損害を受けたという事実は、徹底的に隠されましたので、日本軍はこのことについて全く気が付きませんでした。また、主力艦隊が台風被害を受けても戦局は変わらず、アメリカ軍は6月23日に沖縄本島を制圧します。

表 昭和20年6月5日の沖縄戦における台風被害
表 昭和20年6月5日の沖縄戦における台風被害

台風によるアメリカ艦隊の被害はアメリカ国防省に大きな衝撃

戦局を変えるにいたらなかったとはいえ、台風による大損害は、アメリカ国防省に大きな衝撃を与えています。日本軍には徹底的に隠してきたことですが、昭和19年12月18日にもレイテ島作戦中の艦隊が台風に巻き込まれ、3隻の駆逐艦が沈没するなど24隻が被害を受けていますので、2回目だったからです。このため、台風観測の重要性が認識され、昭和20年から飛行機観測のための組織が作られています。危険をおかして台風の中心に飛行機で飛び込み、台風の中心位置や中心気圧、風速の分布などを求めるようになったのです。

図の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。

表の出典:饒村曜(2002)、台風と闘った観測船、成山堂書店。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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