平安京さんぽシリーズ⑫ 知る人ぞ知る隠れ道「六条通」を歩く(後編)
六条通は烏丸通から西側が極端に細くなり、車では通行できません。両側には古い民家も残り、風情ある町家も続きます。
東本願寺の北側に位置するこのエリアは、江戸初期には「六条三筋町」と呼ばれる花街でした。吉野太夫などの名妓を輩出して栄えていましたが、寛永17(1640)年に市街地整理のために西へと移転を命じられます。その時、あまりに急な移転に町の人びとは大混乱し、その様子が当時の九州での一揆「島原の乱」の混乱ぶりと似ていたことから、いつしか花街は「島原」と呼ばれるようになったのです。現在その名残を感じることは難しいですが、六条通の北側に三筋の通りは残っています。
六条通は新町通で一度クランクしています。少しだけ北へ進み、白山湯という昔ながらの銭湯を目印に再び西へと進むことができます。このあたりはまさに昭和時代にタイムスリップしたかのような懐かしい風景が続きます。
西洞院通を越えて、大きな堀川通まで出ると突き当たりとなり、六条通は終わりを迎えます。その理由はこちらにかつて本圀寺があったからでした。
本圀寺は日蓮宗の大本山の一つで、日蓮が鎌倉に開いた草庵・法華堂が始まりです。日蓮亡き後、弟子によって引き継がれましたが、室町幕府ができると、貞和元(1345)年、京都・堀川六条に移し、本国寺としました。貴族の子弟が代々貫主となったこともあり、堂宇も一時100を超えたと伝えられますが、天文5(1536)年に比叡山の僧徒の焼き討ち(天文法華の乱)にあい、堺に避難しました。
その後、豊臣秀吉の姉・日秀尼や加藤清正によって再興され、江戸時代には水戸光圀公の援助を受けて往来の隆盛をとり戻しました。この時、光圀公にちなんで、寺名が「国」から「圀」へ改められました。しかし、天明の大火で経堂以外は全焼し、のちに復興されましたが、昭和46年に現在地の山科へ移転しました。
五条堀川の交差点北側には、大きな題目の石碑が残っており、本圀寺のあった五条堀川東側には、現在もかつての塔頭寺院が点在しています。
堀川六条の交差点から南を見ると、西本願寺の北東角で、堀川通が左へ曲がっており、西本願寺を避けるように南へ伸びていることが確認できます。東西南北まっすぐの碁盤の目の京都にあって、ここは貴重な例外箇所。まさに西本願寺の勢力が道を曲げたということができそうです。
もし東本願寺に立ち寄らなければ、散策の終わりに西本願寺を訪ねてみるのもいいかもしれません。江戸時代に火事に遭わなかったことで、桃山時代から江戸初期の華麗な建築群が残り、書院、北能舞台、飛雲閣、唐門、御影堂、阿弥陀堂が国宝に指定されています。
また門前には仏壇仏具の店が立ち並び、かつての寺内町の雰囲気も感じることができます。同じく門前の亀屋良永では、門前名物の「松風」も人気で、お土産にお薦めです。最も見つけにくいからこそ、昔ながらの風情を感じることができる六条通、ぜひとも訪れてみてください。