【深掘り「鎌倉殿の13人」】金剛こと北条泰時の強力なバックは、源頼朝だった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、金剛こと北条泰時が注目されている。北条泰時の強力なバックは源頼朝だったのだが、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。
■金剛こと北条泰時とは
寿永2年(1183)、金剛こと北条泰時は義時の長男として誕生した(以下、「泰時」で統一)。ドラマのなかでは、母が八重になっていたが、その可能性は極めて低い。
通説によると、泰時の母は側室の阿波局だったといわれている。しかし、阿波局に関する史料は非常に乏しく、その生涯についてはほとんど知られていない。謎の女性だ。
■源頼朝が強力にバックアップ
建久5年(1194)、泰時は源頼朝を烏帽子親として元服し、頼朝から諱(いみな:実名)の一字を与えられて、「頼時」と名乗ったのである(のちに、泰時と改名した)。これは、泰時のみならず、北条氏にとっても重要なことだった。
烏帽子親とは、元服のときに立てる仮の親のことである。子のほうは、烏帽子子と呼ばれた。つまり、頼朝と泰時は、仮とはいえ親子関係を結んだことになる。頼朝が泰時に諱の一字を与えたことは、その証左でもある。
烏帽子親になる人物は、誰でもよいわけがなく、将来を託すことができる有力者でなくてはならなかった。むろん、北条氏の意向もあり、頼朝に烏帽子親を依頼したのは間違いないだろう。頼朝は泰時の烏帽子親になることで、北条氏との強力な関係を内外に示したことになる。それは、北条氏も同じだった。
■泰時と頼朝にまつわる逸話
『吾妻鏡』には、泰時と頼朝にまつわる逸話を載せている。泰時が御家人の多賀重行とすれ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったので、頼朝は大変立腹した。むろん、それには理由があった。
北条氏は頼朝の外戚であり、幕府内でも高い地位にあった。それゆえ、頼朝は泰時はほかの御家人とは格が違うので、重行が下馬の礼を取らないのは非礼であると激怒したのである。
一方の重行は、泰時自身も非礼であるとは考えていなし、自身も礼を失した行動とは思っていないと釈明したうえで、その点を泰時に聞いてほしいと述べた。
ところが、頼朝は泰時が重行が罰せられないよう庇っているだけで、重行はうまく言い逃れるために嘘をついていると断じた。その結果、頼朝は重行の所領を取り上げ、泰時には剣を褒美として与えたという。
このエピソードは、頼朝が泰時を寵愛していたこと、そして泰時の高潔な人柄をあらわすものとして評価されてきた。しかし、『吾妻鏡』の編纂には北条氏も関わっていた可能性があるのだから、泰時を礼賛あるいは特別視する創作とも考えられる。
■まとめ
頼朝の死後、北条氏は一気に台頭するが、泰時が元服する頃から、いやそれ以前から十分な布石があった。なお、ご存じのとおり、泰時は「御成敗式目(貞永式目)」を制定したことで知られている。