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【深掘り「鎌倉殿の13人」】金剛こと北条泰時の強力なバックは、源頼朝だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
金剛こと北条泰時を演じる坂口健太郎さん。(写真:2018 TIFF/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、金剛こと北条泰時が注目されている。北条泰時の強力なバックは源頼朝だったのだが、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■金剛こと北条泰時とは

 寿永2年(1183)、金剛こと北条泰時は義時の長男として誕生した(以下、「泰時」で統一)。ドラマのなかでは、母が八重になっていたが、その可能性は極めて低い。

 通説によると、泰時の母は側室の阿波局だったといわれている。しかし、阿波局に関する史料は非常に乏しく、その生涯についてはほとんど知られていない。謎の女性だ。

■源頼朝が強力にバックアップ

 建久5年(1194)、泰時は源頼朝を烏帽子親として元服し、頼朝から諱(いみな:実名)の一字を与えられて、「頼時」と名乗ったのである(のちに、泰時と改名した)。これは、泰時のみならず、北条氏にとっても重要なことだった。

 烏帽子親とは、元服のときに立てる仮の親のことである。子のほうは、烏帽子子と呼ばれた。つまり、頼朝と泰時は、仮とはいえ親子関係を結んだことになる。頼朝が泰時に諱の一字を与えたことは、その証左でもある。

 烏帽子親になる人物は、誰でもよいわけがなく、将来を託すことができる有力者でなくてはならなかった。むろん、北条氏の意向もあり、頼朝に烏帽子親を依頼したのは間違いないだろう。頼朝は泰時の烏帽子親になることで、北条氏との強力な関係を内外に示したことになる。それは、北条氏も同じだった。

■泰時と頼朝にまつわる逸話

 『吾妻鏡』には、泰時と頼朝にまつわる逸話を載せている。泰時が御家人の多賀重行とすれ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったので、頼朝は大変立腹した。むろん、それには理由があった。

 北条氏は頼朝の外戚であり、幕府内でも高い地位にあった。それゆえ、頼朝は泰時はほかの御家人とは格が違うので、重行が下馬の礼を取らないのは非礼であると激怒したのである。

 一方の重行は、泰時自身も非礼であるとは考えていなし、自身も礼を失した行動とは思っていないと釈明したうえで、その点を泰時に聞いてほしいと述べた。

 ところが、頼朝は泰時が重行が罰せられないよう庇っているだけで、重行はうまく言い逃れるために嘘をついていると断じた。その結果、頼朝は重行の所領を取り上げ、泰時には剣を褒美として与えたという。

 このエピソードは、頼朝が泰時を寵愛していたこと、そして泰時の高潔な人柄をあらわすものとして評価されてきた。しかし、『吾妻鏡』の編纂には北条氏も関わっていた可能性があるのだから、泰時を礼賛あるいは特別視する創作とも考えられる。

■まとめ

 頼朝の死後、北条氏は一気に台頭するが、泰時が元服する頃から、いやそれ以前から十分な布石があった。なお、ご存じのとおり、泰時は「御成敗式目(貞永式目)」を制定したことで知られている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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