日本のサッカーシーンを彩ってきた聖地の記憶。埼玉スタジアム誕生から20年
2001年10月13日のJリーグ浦和レッズ対横浜F・マリノス戦で埼玉スタジアムがこけら落としされてから、10月13日でちょうど20年となった。浦和のホームスタジアムとして、また、日本代表がワールドカップ予選を戦う際のホームスタジアムとして、日本のサッカーシーンを彩ってきた聖地には、どのようなメモリーがあるのか。
第2弾では、埼玉県公園緑地協会の職員として1999年から2016年まで(2004年4月から2008年10月までを除く)埼玉スタジアムで働き、多くのドラマを見つめてきた船越良氏を取材した。
■アジア最大級のサッカー専用スタジアム
日本サッカー協会がワールドカップ招致を決めたのは1987年。まだ昭和の時代だった。埼玉県サッカー協会は1992年(平成4年)に新スタジアムの建設を決め、Jリーグが開幕した1993年、新スタジアムが国内開催候補地に決定した。
その後、1996年のFIFA理事会で2002年ワールドカップの日韓共同開催が決定。1998年に「埼玉県営サッカースタジアム(仮称)」の起工式が行われた。これが後に「埼玉スタジアム2002」と命名された。
スタジアムが完成したのは2001年7月。そして、10月13日にオープン記念試合としてJリーグ浦和レッズ対横浜F・マリノス戦が開催された。観客は6万553人だった。
「アジア最大級のサッカー専用スタジアム」では、その後次々とビッグマッチが組まれていった。2001年11月7日には、日本代表対イタリア代表の国際親善試合が、観客6万1833人を集めて開催された。左サイドで小野伸二が粘り、すかさずボールを奪った稲本潤一が浮き球のパス。中央で鋭く裏を突いた柳沢敦が芸術的なボレーシュートを決めて先制した。世界を驚かせた瞬間だった。(結果は1-1)
数々の試合を見てきた船越さんに、日本代表戦で最も印象的だった試合を聞くと、2002年6月4日に行われた日韓ワールドカップ・グループリーグ第1戦のベルギー戦を挙げた。
大学までバレー部だったという船越さんだが、サッカーを見るのも好きで年末年始は天皇杯決勝や高校サッカーに夢中になっていた。大学3年生だった1986年6月には、バレー部の合宿所で夜中にメキシコワールドカップのラウンド16・ベルギーvsソビエト連邦戦(4-3でベルギーの勝利)を仲間たちとテレビ観戦し、技術の高さやスピード、迫力に目を見張った。国内で目にしている日本リーグや天皇杯の試合とは別次元だった。
その印象が強かった船越さんは、日韓ワールドカップの開催が決まるとすぐに「あのワールドカップが日本に来るのか!」と、志願して日韓ワールドカップの準備室に異動。本大会の組み合わせが決まると今度は「日本があのベルギーと戦うのか!」と胸を躍らせた。
結果は2-2の引き分け。日本はワールドカップ出場2回目にして初の「勝ち点1」を手に入れた。
「大学時代、遠い彼方にいるように見えていたベルギーと、こうして堂々と渡り合える日が来るなんて、と感動しました。鈴木隆行選手のつま先シュートや稲本選手がゴール後に自分を指さして歓喜した姿は今も目に焼き付いています」
■職員たちは長沼健・初代場長の話に魅了された
サッカー経験者ではない船越さんがここまで胸を熱くさせたのはなぜか。その背景にあったのは、1964年東京五輪と1968年メキシコ五輪で日本代表監督を務め、メキシコ五輪で銅メダルに輝いていた長沼健氏が、埼玉スタジアムの場長として在籍し、ことあるごとに思い出話をしてくれていたからだった。
「昔はリフティングもできなかったんだよ」
「だからクラマーを呼んだんだ」
当時の情景が目に浮かぶようだった。
「長沼さんは重鎮なのに若手の職員にも分け隔てなく接し、多くの貴重な話をしてくれました」という船越さんがサッカーに情熱を注ぐようになったのは自然な流れだった。
■日本代表戦の誘致合戦が始まった
2002年日韓ワールドカップが終了した後は、全国に10カ所できたワールドカップスタジアムを日本代表戦で使ってもらうための「代表戦誘致合戦」が始まり、各自治体はしのぎを削った。なにしろ4万人以上を収容するスタジアムばかりであり、財政的にビッグイベントの開催は不可欠だった。
招致合戦で埼玉スタジアムが優位に立てたのは「サッカー専用」「6万人収容」が理由だった。建設が決まった当初は陸上競技場と併用するのが常識で、コンサートなどのイベントを開催しないと儲からないとされており、サッカー専用は常識外と見られていた。
ところが、この「サッカー専用」ということがプラスに働いた。日本サッカー協会や電通に通ってプレゼンテーションや陳情をするのは他のスタジアムの管理者と同様だったが、埼玉スタジアムは設計上、見切り席が少ないことや、チケット料金を高く設定できるカテゴリー1の席数を豊富に取れること、そして何より、陸上競技連盟などとの日程調整が不要なため、日程が空いていればすぐに返事をできるのが強みだった。
加えて、日韓ワールドカップ後に日本代表監督に就任したジーコが、「ワールドカップ予選はここがいい」と希望したことで一気に流れができた。プロモーションも重要視する日本サッカー協会の要望に合わせて、代表戦の際にスタジアムを青くライトアップしたり、通信環境の整備をいち早く行ったり、日本代表の聖地としてのムードづくりにも協力した。
埼玉スタジアムに向かう時、人々は気持ちが高揚するのを感じる。それはファン・サポーターも選手も問わない。サッカー好きなら誰もが同じだろう。日本代表が埼玉スタジアムで戦ったワールドカップアジア予選の成績は実に21勝3分1敗を誇る。ホームの利のムードを確実に醸成できるスタジアムなのだ。
■浦和レッズの人気と活躍が埼玉スタジアムの名をアジアに広めた
Jリーグでは浦和のホームとして瞬く間に存在感を高めていった。埼玉スタジアムは完成時から浦和のホームスタジアムとして使用されていたが、最初の頃は駒場スタジアム(現浦和駒場スタジアム)との併用。しかし、年を追うごとに埼玉スタジアムでの試合数が増えていき、それにともなって成績も上がった。
船越さんが浦和の試合で最も深く記憶しているのは2007年11月14日のAFCチャンピオンズリーグ決勝・セパハン戦だという。当時の職場は異動により別の場所だったが、船越さんはこの試合も埼玉スタジアムで見ていた。
「埼玉スタジアムが一番沸いたのはあの試合。浦和のACL優勝で埼玉スタジアムの名がアジアに知れ渡りました」
その後は海外のサッカーファンが埼玉スタジアムに足を運ぶことも増えた。アジアのみならず、欧州のファンも訪れた。
興味深いエピソードがある。船越さんによると、「日本代表戦と浦和の試合後ではゴミの量がまるっきり違う」という。代表戦後は座席に残されているゴミの清掃や、スタジアム外周の広場の清掃が大仕事で、翌朝はカラスがわんさか飛んでくる。スタジアムから浦和美園駅までの道もくまなく掃除をしないといけない。けれども、浦和の試合後は、座席はもちろん、飲食のキッチンカーが並ぶ南広場にもゴミはほとんど残っていないのだという。
「それは、試合に来ることがサポーターの生活の一部であり日常になっているからです」
船越さんが今後の埼玉スタジアムに対して願っているのは、「税金に寄りかかる体制ではなく、サッカーの力で財政的に自立できるスタジアムになること」だ。
現在は浦和レッズがさいたま市に創設した「レッズランド」の総支配人を務める船越さん。「埼玉スタジアムで浦和が勝ち、地域の人々に喜びや幸せを運ぶ場所、スポーツの力を伝える。そういう場所になってほしい」と願っている。
(※イタリア戦のスコアが間違っていたので修正しました)