なぜ政治家は不用意な発言をしがちか:橋下発言からメディアの功罪と二院制を考える
橋下発言の余波
「猫の目のように」という表現があるように、世の中の移り変わりの激しさには、ついて行くのすら大変というところがあります。一頃、連日のようにメディアに登場していた、維新の会の橋下代表が、とんと姿をみせなくなりました。ほとぼりが覚めるのを待っているとみて、おおよそ間違いないと思います。
従軍慰安婦や米軍の風俗店活用に関する一連の橋下発言の問題については、多くの人が論じてきたので、ここではもはや取り上げません。ただ、慰安婦問題に関して「当時は必要な措置だった」と強調することは、その意図にかかわらず、「だから仕方ない」と言っているのと紙一重で、原発をめぐる議論と同じく、必要性を強調するだけで済むなら、世の中のあらゆる問題はなかったことにできる、と言えば済むでしょう。
むしろここで強調したいことは、問題は橋下氏個人の資質にとどまらないということです。ある意味で開き直っている、永田町の住人である友人が言うように、「国民が選んだ」ことは間違いありません。個々人がどの候補、政党に投票したかに関わらず、政治家のレベルは(総体としての)国民のレベルに比例するという黄金律から目を背けるべきではないでしょう。
マスメディアの功罪
それに関連して重要なことは、小泉政権期に突如として浮上した「政治とメディア」の問題が、これほど浮き彫りになったのは珍しいということです。
大前提として、いろいろな問題を抱えつつも、情報を組織的に収集して発信する、テレビ局や新聞社などマスコミの意義そのものを否定することは困難で、マスコミがいらないとはいえない、ということです。実際、かくいう私も、ニュースソースの多くは内外のマスコミ各社に依っています。しかし、マスコミを通じた一方通行の情報の洪水が、もともと無軌道になりやすい世論をますます無軌道にさせ、政治や外交を不安定化させかねないことも、また確かです。そして、その兆候は近年、より顕著になってきています。
例えば橋下氏の記者会見などを視聴している限り、様々な問題に関して、あたかもバラエティ番組でのコメントのような、歯切れのいい、言い換えれば極めて断定的、一面的な発言が目立ちます。
スピードが求められることで、その媒体を問わず、伝えられるニュースは、ごく断片的なものがほとんどです。そうなると、干物のように熟成された良識や叡智より、ジャンクフードのように瞬間的に刺激が伝わる放言の方がより注目されやすくなります。「短く、分かりやすく、スパイシーに」という要望を暗に掴み、いわば「欲しい分量の欲しいコメント」を言い切ることで、橋下氏はメディアでの露出度を高め、これが引いては維新の会の躍進に繋がったとみていいでしょう。そこに、小泉元首相のときと同じく、個別の政治家とメディアの間の利害の一致、言い換えれば一種の野合を見出すのは、私だけではないでしょう。
他方で、ウェブという名のメディアは、情報発信の双方向性の高さで既存メディアと異なります。例えば、既存メディアと異なり、ウェブでは悪意に満ちた誹謗や、事実を曲げた報道に対して反論する機会があります。また、私自身も常日頃感じていることですが、意見・情報を発信する機会が乏しい者にとって、これほど有用なツールはないでしょう。しかし、発信者があまりに多すぎるため、内容に関わらず、インパクトの強い情報が拡散しやすい点では既存メディア以上であることも、否定し難いところです。何か目立つことがあった途端、特定の個人や団体のウェブサイトが、(その多くは匿名による)敵意や反感に満ちた書き込みで埋められることが多いことは、その典型です。すなわち、情報の収集・発信を容易にする一方で、ウェブもまた単純化された情報が流通しやすいという弱点からは逃れられません。確かなことは、極めてセンシティブな問題に関して政治家に求められるのが、メディアを通じたアピールを意識した、歯切れのいい、言いっ放しのコメントではなく、注意深い思慮と発言であることです。
日本では「議員が多い」のか
これは世界各国に共通する問題です。しかし、諸外国以上に日本では、支持者との直接的な意見交換や親交より、メディアを通じた知名度、露出度に依存した政治家が現れやすく、他方で有権者の政治家との接触も、リアルなコミュニケーションではなくメディアを通じたものになりやすい土壌があります。それは欧米諸国と比較した市民レベルでの政治活動の不活発さや、メディアの普及だけが原因ではありません。すなわち、日本では国会議員の数が少ないため、有権者と政治家が日常的に接触しにくい状況があるのです。
表1は、日本を含む、先進23カ国の国会議員の定数を示しています。これだけみると、確かに日本の議員定数は多くみえます。
しかし、表2で示すように、議員一人あたりの人口、換言すれば議員一人あたりの有権者の数でみたとき、日本の国会議員は他の先進国と比較して、アメリカに次いで多いことがわかります。逆に言えば、人口との比率でみたとき、例えば下院(衆議院)に関して、日本はアメリカに次いで議員の数が少ないことになります。
これが意味するところは、日本では多くの国と比べて、
- 議員になるために、支持を集めなければならない有権者が多い。つまり、議員になるための競争率が高い。
- 一人あたりの議員がカバーする有権者が多い。つまり、有権者と政治家の接触頻度が低くなりやすい。
メディア頼みの議員が増える背景
この構造は、かつての55年体制のもとで、既に生まれていました。競争が激しくなるにつれ、多くのひとはむしろ確実性を求めるようになります。これに鑑みれば、議員を目指すことができるのが事実上、いわゆる「ジバン、カンバン、カバン」を備えた、たとえごく特定の地域・業種・階層であっても、間違いなく支持してくれる支持基盤を確保する者にほぼ限られ、その結果として二世、三世議員が量産されたことは、不思議ではありません。
一方で、ごく特定の団体や個人の支持を固めた候補が勝つ状況は、逆にこれに対する広範な不満を招きやすく、結果的にメディアなどを通じた、知名度(だけ)が高い人間の当選を促す土壌にもなります。そして、その傾向は現代において加速しているといえるでしょう。
ライフスタイルの多様化や、産業構造・雇用形態の変化にともない、現代の日本では労働組合、町内会、PTAなどの恒常的な組織、結社への自発的な参加が、必ずしも活発とはいえません。これらの組織は政治家にとって、有権者と直接接触し、支持を再確認する場でもあります。すなわち、これらの団体の組織率が低下することは、政治家にとって固い支持を期待できる母体の弱体化と、より流動的な支持、すなわち無党派層への支持にシフトする必要性を意味し、一方で有権者にとっては、かつてと比較してなお一層、政治家との接点が少なくなった状況を示します。
これを考えあわせれば、現代の日本では、他の先進国と比較してなお一層、
- 揺るぎない支持基盤がある、ごく一部の議員を除き、多くの政治家にとってメディアでの露出・発信は支持を確保するうえで重要な意味をもち、
- 有権者もまた、政治家との接触がバーチャルなものに偏りがち、
という状況にあるといえるでしょう。私が昨年、ある大学で担当している講義のなかで、ある国会議員(そのひとはツイッターのアカウントを保持しながらも、ほとんどつぶやいていません)に講演を依頼したとき、学生からのコメントには「政治家の話を初めてちゃんと聞いた」というものが少なからずありました。これは、多くのひとに共通するのではないでしょうか。
特定の固い支持基盤をもたない政治家にとって、メディア露出の多寡は政治生命そのものを左右する問題です。この状況に鑑みれば、「欲しい分量の欲しいコメント」を言い切る政治家にスポットが当たる傾向は、今後ますます強くなるとみられます。それが「政治に関心を集める」効果は否定しませんが、よりショーアップされたものになりやすいこともまた確かでしょう。
議員定数を増やさずに、議員一人当たりがカバーする有権者を減らすには
だとすると、議員定数を単純に減らすことが、日本の政治や外交にとって賢明かどうかは疑わしくなります。むしろ、選挙制度にもよりますが、議員定数を増やし、議員一人あたりがカバーする有権者の数を減らすことが、メディア偏重の政治から抜け出す一助になるといえます。
とはいえ、現下の財政赤字と政治(政治家)不信のなかで、議員定数をただ増やすことは、ほぼ不可能でしょう。実際、昨年来の「一票の格差」をめぐる問題に対する各党間の議論は、それぞれが主張する数はともかく、議員定数の削減でおおよそ一致しています。
各地の高裁が指摘したのは、「選挙区ごとの有権者のばらつきが許容限度を超えている」ということであり、「議員定数を減らせ」と言っているわけではありません。にも関わらず、原則的に議員定数の削減という方向性が生まれた背景には、「消費税の増税を国民にお願いする以上、政治家が身を切らねばならない」という、よく聞く主張があります。その妥当性はともかく、議員の純増が事実上不可能であることは否めません。
以上を踏まえて、一つの案としてあり得るのは、参議院の議員定数を大幅に削減、あるいは廃止し、もって衆議院の議員定数を増やすことです。
二院制はマスト要件なのか
「二院制によって慎重な審議が期待できる」という主張は理解できます。しかし、少なくとも現下の日本における二院制は、慎重な審議というより、ただ審議を長引かせる効果の方が大きいと言わざるを得ません。
元来、参議院は、権力闘争とは離れて法案を審議する「良識の府」と位置づけられてきました。そのため、世に知られた有識者から構成されるよう、選挙区も広くとられ、議員の任期も長く設定されています。しかし、55年体制のもとで既に、参議院のそのような特質は失われ、参議院は衆議院と同様に党派・派閥間の勢力争いの場としての色彩を濃くしました。さらにまた、選挙区の広さは、知名度で有利なタレント議員を量産する土壌にもなってきました。
ここで注意すべきは、比例区が全国11ブロックか全国区かの違いはありますが、現在の衆参両院における選挙制度がいずれも小選挙区比例代表制で共通しており、さらに参議院議員の多くは衆議院議員と同様に、いずれかの政党に所属していることです。これで参議院の審議が衆議院での対立の延長戦に位置づけられない方が不思議です。近年では、いわゆる「ねじれ」のもとで、反対のための反対を展開する場になることも珍しくありません。これは特定の政党の行動パターンにのみ限りません。
表1にあるように、先進国全体のうち、一院制を採用する国は三分の一以上で、デンマーク(1953年)やスウェーデン(1970年)のように、二院制を廃止した事例もあります。ただ形式的に二院制を採用するより、重要なことは、例え一院制であっても、過剰なショーマンシップや党派心に由来する、「ためにする」反対や無条件対立を克服できれば、充分に「慎重な審議」が期待できるということです(これは政党間の対立を演出しやすい選挙制度の問題にも関わってくるが、小選挙区比例代表制および現在の選挙制度改革の問題については、回を改めて取り上げる)。
両院に視点の差を設ける制度の欠如
さらに、選挙制度の共通性に関連して述べると、日本の衆議院と参議院の選挙制度は、小選挙区比例代表制で共通するだけでなく、「有権者の平等」、いわゆる「一票の格差」がない投票を重視する制度であることも共通しています。しかし、議員がほぼ同じ原則で選出されるなら、両院に視点の違いと実りある議論を期待することは困難です。
表3で注目すべきは、二院制が採用されている先進国でも、下院(日本では衆議院)と同じ選挙制度が上院(同じく参議院)で採用されている国がごく少数派で、ほとんどの国では上下両院の議員の選出方法に大きな違いがあることです。イギリスの貴族院は特殊に過ぎるとしても、ヨーロッパ大陸では地方議会などで上院議員が選出されることが稀ではありません。この場合、上院議員は直接選挙で選出されるわけでないため、下院が優越することに大きな問題はありません。とはいえ、少なくとも、いわゆる国会議員とは異なる地方議員としての視点、意見を国政に持ち込むことが可能です。また、地方議会による間接投票であることは、その選出に有権者が直接関与できない一方、直接選挙と比べて、メディア受けする、知名度頼みの議員の登場を抑制する効果は期待できるでしょう。
日本と同じく、アメリカでは(ほぼ例外的に)両院の議員が直接選挙で、しかもいずれも小選挙区制で選出されますが、その上院と下院の選挙制度は、理念において大きく異なります。アメリカでは、下院議員は有権者の人口に比例して各州選出の数が決まる一方、上院議員は各州から2名ずつが選出されます。つまり、前者は「有権者の平等」を、後者は「各州の平等」を原則にしているといえるでしょう。換言すれば、アメリカ下院の選挙制度は「一票の格差」が小さい投票方式で、個人の政治的平等が保障される制度である一方、上院の選挙制度は小さな州の発言力が抑制されにくい仕組みになっているのです。
もちろん、連邦制と単一制の違いなどもあり、諸外国の事例をそのまま日本に持ち込むことができないことは、言うまでもありません。しかし、繰り返しになりますが、日本の衆参両院のように、同一の理念に基づく、ほぼ同じ選挙制度を採用するなら、多様な意見の集約という二院制の意義をほとんど見出すことはできないこともまた、確かです。のみならず、日本の場合、両院の議員がいずれも直接選挙で選出されながらも、両院の一致で法案が成立するわけでもありません。これは、参議院の存在意義に対する疑問符を、ますます大きくします。
参議院
以上から、少なくとも、現状のまま参議院を維持することに、積極的な意義を見出すことは困難です。そこで、例えば参議院を47の都道府県議会から二名ずつ間接投票で選出することにすれば、参議院議員は94名で済みます。そのうえで、現行の242から94を引いた148名を衆議院にスライドさせたなら、衆議院の議員定数は628名になります。その場合、単純計算で、議員一人当たりがカバーする人口は、26万6285名から20万3530名に減らすことができます。これにより、有権者からみれば政治家との接触頻度をあげることができ、政治家からみれば選挙区に目配りしやすくなり、結果的に両者のメディア依存を引き下げる効果が期待できます。そして、仮に参議院を廃止して、その議員定数を衆議院のそれに上乗せした場合、議員一人あたりの人口は17万7032名にまで減らせます。先進国の平均的な人数と比べれば、それでもまだ多いですが、少なくとも現状よりは平均9万人ほど減らすことができます。
不確実性が高まる現代にあっては、人々の不安や不満が高まりこそすれ、これを軽減させることは、なかなか困難です。国民の間に鬱積したもろもろの感情をあたかも代弁するかのようなパフォーマンスによって、移ろいやすい世論の支持を集める政治家の独壇場にすることは、特定の対象に対する敵意の増幅のみを促します。「‘敵’に立ち向かう、人々の‘味方’」としてのイメージ化は、爆発的な支持を集めるかもしれませんが、‘敵役’を押し付けられた側との亀裂は深まり、かえって国内社会の分裂を促し、海外との関係を悪化させやすくなります。それは、一時ひとびとの溜飲を下げる効果はあるかもしれませんが、日本にとって決してプラスとはいえません。
幸いにも、今回の場合、橋下氏への風当たりは総じて強かったようです。しかし、個人の資質の問題としてのみ扱っていては、今後とも同様のことが繰り返され、第二、第三の橋下氏の登場を促しかねません。これを防ぐことは、日本の自由と民主主義を守りながら社会の安定を図ることであり、そのためには有権者がメディアに依存せずに政治家と接触できる機会やチャンネルを増やし、もって政治家が派手な打ち上げ花火に頼る傾向を抑える必要があるといえるでしょう。